久し振りに一緒になった飲み会だった。和子は隣に哲史が座ることを笑顔で迎えてくれた。以前は職場の飲み会の後に飲み足りない者同士が集まり、二軒目に行ったり、カラオケに行ったりしていた。和子も哲史もそのメンバーだった。席に着いたものの何を話せばよいか迷った。会話が弾まず相手に気まずい印象を取られかねない。ただ、変な質問を投げ掛けて相手を戸惑わせても仕方ない。そこで哲史は席に居合わせたメンバーの会話を聞くことにした。
「『はなきん』って、金曜日の夜七時過ぎに同じポーズをしたんですよね。」
「あの時、みんな開放感があってできたんじゃない。」
「その後、飲みに繰り出したから面白かったですよね。」
哲史には、いったい何時の話なのかさっぱり分からなかったが、とにかく聞き役を振る舞った。和子も会話に参加していたため、一言も発していないのが哲史だけだったが焦らず、食い付ける話題になるまで聞き続けた。
「私はそんなに強くないです。たしなむ程度しか飲まないから。」
「美帆さんは飲まないキャラを演じたいのです。」
和子は美帆とは飲み友達でプライベートでもよく出掛けていたため、美帆の話題には事欠かない。美帆の話を面白おかしく話し出した。
「でも、美帆さんは月曜日から日本酒を飲んでいるんですよね。」
ようやく哲史が口を挟んだ。以前、飲み歩いた仲だったので美帆の酒好きの話題に食いつくことができた。
「それを言っちゃう? 美帆さん、素性がばれてしまうよ。どうなんですか? 美帆さん?」
和子が哲史の話を受け止め、美帆に話を振ってくれた。これで会話に入れると哲史は安堵した。和子の好意的な後押しはありがたかった。その後、酔いが回り始め、手料理の話、八十年代に流行った人気番組や花形だった司会者を若い世代の人に知っているかと聞いたりこれまで経験したアルバイトの話に及んだ。
「和子さんは学生時代、何かアルバイトとかされていたんですか?」
ふと哲史は和子がいったいどんなバイトをしていたのだろうと気になり、尋ねた。
「私は短期のバイトかな。弓道をしていたから短期のバイトしか入れなくてね。」
「きゅうどう! 弓ですか!」
「アーチェリーは違うのですよね?」
「あれは一直線に矢が飛ぶのだけど弓道は弓が山なりに飛ぶから的のねらい方が違う。」
「的場に立つまでにいろいろ作法があって、それが出来るようにならないと弓引きが出来ないのよ。」
「知らない世界だな。始めようとしたきっかけはあったんですか?」
「叔父がやっていたんで始めたの。格好良い先輩もいてね。」
「へぇ、知らなかったな。」
しばらくすると美帆の周辺がざわめき出した。聞くとそろそろ終電の時間になるそうだ。時計を見ると時刻が十一時を過ぎていた。店に入ってからだいぶ時間が経っていた。
「お開きにしましょう。」
「お開き!」
「会計!」
「社長から多大なるご厚志をいただきました。なのでお一人五千円!」
社長というのはここでは校長を指し、教職員の親睦の会に参加できない場合にも会費相当を会の幹事に付け届けることが慣例になっている。
会計を済ませた同僚が戻ってきたところで解散となり哲史は地下鉄の長い階段を下り始めた。
「中本さんは首の辺りが真っ赤だよ。」
和子が同僚を連れて後ろから歩いてきていた。
「酔っぱらいました。」
「昔は中本さんとよく飲んだね。中本さんの家の近くまでみんなで行ったことがあったよね。」
「楽しかった思い出です。」
「奥寺先生、まずいまずい。こっちは大江戸線です。南北線はあっちです。」
「分かった。戻ろう!中本さん、さようなら。」
「お疲れさまでした!」
中本は和子に後ろ髪を引かれる思いであったが、潔く別れの挨拶を交わした。
*
和子とは、あの飲み会以来、職場で会うが親密に話すこともなく、二人の距離は縮まっていなかった。哲史は恋煩いをこじらせており、常に和子の存在が頭の中を離れなかった。一層、自分の気持ちに素直になって和子に積極的にアプローチしてしまえばと思うのだが、哲史には守るべき家族がおり、彼らの前途を妨げる行動は出来なかった。ただ、和子のような存在はおそらくもう二度と現れない大切な相手だと思えてしまうところがあって少しでも長く繋がりをもちたかった。哲史は和子と理性で睦ましく繋がりたいと考えていた。子供のいる夫婦が子育てという共通の目的で繋がるように哲史と和子とが精神的に繋がるために何らかの共有していける目標を設定したかった。例えば、哲史が文筆業で成果を上げることができれば哲史が大人向けの文章教室を開き、和子は国語を専門教科にしている先生なので子供向けの作文教室を開けば事業者として一緒に仕事が出来るのではと思った。自宅の一階の空きスペースを使えば家賃が要らない。ただ家族が仕事のパートナーとして和子が訪ねて来られたら驚き、警戒するだろう。また、和子に教室の運営を強いるのは負担になるだろう。何より哲史が文筆で成功する保証は何一つないし、そもそも和子は哲史のことが好きなのか怪しい。現実的ではないのだ。
〈速報が出ました。三月二日から春休みまで小中高校一斉休校を首相が要請しました。〉
哲史は同僚で飲み仲間のLINEグループに今、入った情報を伝えた。
(あまりにも唐突過ぎますね。)
〈やばい!授業が終わっていない。〉
〈何言っているんだ。こんな時は授業どころではないんだよ。明日が最終登校日だろう。バタバタするぞ。〉
〈何の用意が必要ですかね。〉
〈これから入る長期休業中の課題を渡さなければいけないからまず、その準備だね。〉
〈よし、明日の朝、準備するぞ。〉
哲史は自分が流した一斉休校の知らせに、皆がどんな反応をするのか知りたくて次々と返ってくるメッセージに注視していた。二月に中国の武漢市で起こったとされるウィルス感染は瞬く間に世界に広がり、ついには哲史が勤務する小学校が休校する事態にまで発展してしまった。国内で感染者が出たというニュースは連日、報道されていて、哲史の職場でも全校児童が集まる集会は開催してもよいのか? というより、この後に控えている小学校最大の学校行事、卒業式はできるのか危ぶまれてきていた。区がウィルス対応の方針を未だに出していないのにも、大丈夫なのか、対応が遅れると後手に回って苦しくなるぞと思っていた。その矢先に、内閣総理大臣安部晋三が一斉休校の要請を出した。来週から学校が休みになってしまうというのでもう集会や卒業式は現場が騒いでどうにかなる範疇ではなくなっていた。ふと哲史は先生になる前の、コンピュータ会社に勤務していた時期の出来事を思い出した。取引先の日立の社内で突然、ネットワークにウィルスが侵入したと館内に放送が入った。直ちにパソコンをシャットダウンするようにと指示が入り、それまでデスクワークをしていた人たちがノートパソコンを閉じ、一斉に席を離れ始めた。やれやれ、今回の復旧は何時になるんだと不意に生じた余暇をもて余すように自販機や喫煙所に向かっていく背中が見えた。あの時の光景が今回の事態と重なった。「ウィルス」そのものは一方は生物でもう一方はコンピュータで全く性質が違う。共通して言えるのは一度、侵入を許すと瞬く間に拡がる怖れがある。直ぐに業務を止めてしまうところは随分似ていた。情報の伝達の速さ、グローバル化した現代の人の往来の多さを前にするとひとたびウィルスの侵入に晒されると管理者は直ぐに業務を止めに入る。ただ、コンピュータの方が復旧までの時間が素早く、学校現場は直ぐにとはいかない。
翌日、大方の予想通り、バタバタとした一日だった。朝に課題のプリントを用意し、その日から始まった校内作品展の観賞を空いた時間にそれぞれの学級が済ませた。しかし、子供たちを帰すと喧騒が去って校舎は静かになった。退勤前に職員集合があり、来週から職員の学校待機が伝えられた。卒業式、修了式の予定は現時点では決まっていないと伝えられた。哲史は隣の席にいた同僚に親睦のバドミントンの試合は今後、中止になることを確認した。前回、バドミントンの試合の後に、飲み会があり、和子と席を隣にしたのだった。しばらく飲み会もない。和子とはせいぜい職場で顔を会わせるくらいになるなと思った。
*
三月の宵の口、哲史は星空を眺めていた。この時期、季節は春へと変わっていたが冬の星がまだ残っている。冬の星は夜空に一等星が二十あるうちの七つが見える。観察する時の目印が東の空に見えるオリオン座だ。全天の中でも狭い範囲にバランスよく星が配置されている。中央部の三つの星を地上に向けて伸ばしていくと白く輝くシリウスが見付かる。そして再びオリオン座の右下の一角に目を転じるとリゲルがある。またオリオン座から離れ、右上に目を転じると赤く輝く星がある。おうし座のアルデバランである。オリオン座の右上の一角にある星とアルデバランとの間の長さを倍に伸ばしていくと一ヶ所に六つほど星が集まっている箇所がある。ここが「すばる」と名前が付けられている若い星の集まりだ。古くは枕草子で清少納言がお気に入りの星と挙げているほど、日本人には親しまれている。
*
休校が始まった初日はこれまで計画していた行事の変更や休校中の子供たちの健康確認の仕方を校内で統一するための会合が立て続けに行われた。その後は学級事務などそれぞれ自分たちが抱えている仕事に専念できた。子供がいるのとは違って事務仕事に専念できる時間は先生たちに好評だった。だが、一日の大半を子供たちと共に過ごし、身体を動かして働いている先生にとって充実した時間を過ごしているとは言えなかった。まして帰宅した後も明日までに仕上げておく準備物もなかったので時間をもて余しているという声が職員室にいると聞こえてきた。帰ってからやることがないので早く寝るようになったが寝すぎて夜中に何度も目が覚めてしまう。そんな声も聞こえてきた。一日の中で長い時間、余暇が生じるとどのように過ごすのか迷ってしまうだろう。長期の休暇であれば、旅行を計画し、時間を満喫できたであろう。しかし、今回のように出勤はしなければならない、そのわりに時間に余裕があり、急ぐ必要がない。哲史はこんな時間をいかに充実して過ごすかが大切だと思った。そんなのんびりできた時間も休校当初はあったが、次第に、自宅で自学をすることになっている家庭でいったい誰が見守りするのかが騒がれ出した。学童保育にその地域の三分の二が集まる地域も出てきて、見守りはやがて社会問題になった。当然、政府もそのような声を無視できなくなり、先生の学童保育の勤務を可能にする措置を出した。休校が始まった週の半ばには哲史の勤務する区も制度を整え、先生が子供を見守る活動を実施できるように各校に通知してきた。それによって俄然、忙しくなるのは学校現場だった。先生たちのシフトを組み、さらに自宅待機の児童の健康を確認する連絡、当番制で学年の先生たちで地域の公園を見回り、午前中、遊んでいる子供がいれば、声を掛け、切りの良いところで帰宅を促すことになっていた。これらの負担を強いられるのなら、休校にしない方が良かったなど不満の声が出ていた。学校では能力の限界までパフォーマンスを強いられる。経済活動にもいえるが、ある水準を満たしたら手を緩め、生まれた時間を余暇にまわすような気の利いた仕組みになっていない。成果物を生み出し少しでも皆の生活をよくしようと働いているのに常に余裕なく、フル稼働を強いられるパラドックスが生じている。哲史は休校が始まった直後の時間の過ごし方をヒントに普段の仕事に追われる生活から余暇を積極的に取り入れた生活に転換できれば、もっと豊かに生きられるはずだと思ったものだが、気が付けば今回の休校期間中でさえ、まとまった休みが取れていない。よっぽど余暇の使い方に気を配り、そのためにあらかじめ計画を立て、時間が出来たならばすぐに実行に移すようにしていかなければ充実した生活は送れないと思った。哲史には沸々と沸き起こる考えを胸の内に抱えていた。
*
今日は和子と全く話ができなかった。哲史にとってはつまらない一日だった。だいたい、新型コロナの感染拡大防止で子供が来ない。哲史は休み時間、子供たちと目一杯遊ぶ。今年度に特別支援学級の担任になってから、先生、追いかけっこしましょうと言われるので、休み時間になると校庭に出て追いかけっこをしていた。特別支援学級は異学年の子供たちで構成されていることもあり、運動量に差が出てしまう。そこで鬼から逃げるのにどうしても遅れてしまう子には哲史は手を握り、一緒に逃げるようにしていた。最初は一人の子供の手を握っていたが直ぐにもう片方の手も別の子に繋がれ、さらにジャージの上着の腰辺りの裾を握る子供が現れる。そのため哲史は三人の子供を引き連れて走り回るようになった。ラグビーのスクラムやモールのように密集して動くのは人と人との一体感が生まれるもので楽しさが倍増するものなんだとこの遊び方を通して知った。哲史も夢中になって逃げ回ったし、一緒に逃げる子供たちも大喜びになった。子供が群がって一緒に遊ぶ姿は同僚にも好意的に見られ、中本さん、周りに子供たちがいっぱいだね等と声を掛けてくれる。そんな遊びを繰り返していた時、哲史は誰かに見られているという視線を感じるようになった。視線を感じる方向を見ると和子だった。和子は自分の学級の子供たちを見守るために休み時間になると校庭に出ていた。哲史は最初は見られても構わない気持ちでいたが、やはり以前から好意を抱いていた相手だったので和子の存在がどうしても気になってしまう。ただ、和子も子供たちと一緒に遊ぶ哲史を好意的に思ってくれているようで、哲史さん、子供たちと一緒になってよく遊んで偉いね等と声を掛けてくれていた。いつの間にか、和子がいる校庭で子供たちと遊ぶのがこの上ない幸せになっていた。ところが子供たちが登校しなくなり、職員室で事務仕事が中心になると職員室も別なため、一日に会う機会が朝会くらいしかなかった。話ができる機会を見付け、短い時間でも話せれば気持ちが高ぶった。和子のことが気になり、そわそわするようになった。どうも落ち着かなくて困っていた時、同僚から心の安定を取り戻すとよいという話を聞いた。
「職場では誰から、どう思われようが気にしないようにしている。」
その真意を哲史が聞くと好意を持たれようとすると相手の心情が気になり出す。すると自分がしたいことの判断が鈍ると教えてくれた。哲史は話を聞いてその通りだなと思った。ならば、和子を気に止めなくなれば楽になれると思ったことがあったが、和子への思いはかなり進んでしまっていて、和子にも感づかれている節がある。突然、冷たい態度をとる気にもなれなかった。一層、哲史は異動すれば毎日、会わなくなるし、少しは冷静になれるだろうと思った。しかし、先生の異動は秋の管理職との面談で申し出なくてはならず、当に過ぎた三月では遅かった。が、新型コロナ感染拡大を警戒しているこの時期に思いがけないことが起こった。来年度、新入学を予定した新一年生の数が年度の終わりで急激に減り、百十五名いた児童数が十名以上減ってしまった。学区域に転居する予定だった家庭が新型コロナウィルスの影響で断念したのではと噂がたった。一年生の教室は三十五人が定員の最大とされており、百十五の時点であと一人増えれば四学級になるので哲史の学校では学級増を見込んで教員を一人多く要望していた。ところが児童数を大幅に減らしたため、予想されていたひとクラスがなくなり、そこへ担任一人が新しく入って来るため、余剰の人員が出てきてしまった。そのため、今の職場から一人出さなくてはならない。人事は校長に一任されるため、来年度、必要な先生は残留となる。替えが効くと判断された先生が異動をこの後、伝えられる。哲史は残念ながら、異動対象リストに上がるだろう。ひと学年を任せられる信頼を得ていなかった。学年主任を各学年に配置し、その後、若手を付け、残った中から選ばれる。さらに次の条件に該当する者から選ばれる、赴任三年目以上の全科の免許をもっている者だった。その条件を満たすのは哲史を含め、四人に絞られる。職員朝会で校長から余剰人員が発生した状況を伝えられた。職員朝会後、早速、哲史と同様に異動対象の同僚にどうするか聞いてみた。
「いいっすよ。」
と簡単に返事が返ってきた。哲史はこの余剰人員に伴う異動を重く捉えていた。これまで哲史は四校経験してきたが今回と同様のケースで異動の先生を迎えたことがあった。市内では体育に通じる先生で一目置かれる存在だった。自校で人員の余剰が発生した時、自分から志願して出てきたと本人が話してくれた。周りも驚きまたその力量を期待された。だが、新年度が始まると彼の学級は荒れ、年度の途中で休職してしまった。先生の仕事は迎える子供たちといかに関係を結び、秩序ある学級作りが求められる。また、自分の学級だけを見ているだけでなく、教育活動が計画通り行われるよう仕事を進めなければならない。年度が変わる間際は新年度の切り替えで仕事が立て込み、ましてやその時期に異動を伝えられると準備に落ちが起こる可能性が高まる。普通は三月初めには異動先に管理職と面談を済ませるのだがひと月遅れをとるだけで心の余裕が違ってくる。若手、ベテランであろうと異動はリスクを伴う。学校が違えば子供たちも違い、たとえ隣の学校だとしても子供たちの雰囲気も違ってくる。引き継ぎが十分に出来ないまま、学級がスタートし、配慮されなければならない児童に支援の手が回らず、やがてはトラブルが生じ学級内で混乱が起きることがある。哲史が見たのは学級内の児童の勝手気ままな行動を制止できず、苦悩する先生の姿だった。そんな経験を踏まえて今回の異動は大変な事態だと捉えていた。哲史はそんな思いをしている一方でこれを機に和子への恋慕の情を断ち切ってしまえと考えていた。職場を変えてしまえば毎日、会うこともなく、やがて今の気持ちが薄れる。哲史は和子と結ばれるように全力で向かっていける立場ではなかった。守らなければならない妻がいて、三人の子供たちがいた。和子に恋い焦がれる思いを抱いてしまったとはいえ、何らこと立てておらず、後戻りできる状況だった。解決策として異動を受け入れるのも手だと思えてきていた。ただ、和子を恋い焦がれる思いを断ち切るのは辛く、想像しただけでも耐え難かった。仲のよい関係を続けて、哲史の子供が成人を迎える頃、その時はお互い老人になっているが今の妻と別れ、正式に和子と入籍できたら良いなと思えた。そうなると和子も哲史を好意的に思ってくれている絶妙の距離をできるだけ長く保つことが必要だった。職場で毎日、顔を合わせ、お互いを尊重し合い、良き同僚として居続けることが大切だろう。先生は在籍六年を上限に必ず異動を伴うから、いずれ別々になるが年賀状で近況を伝え続け、機を待ち続け、某のタイミングで早速この思いを実行に移そう、だが和子はそんな先のことまで待てないだろうから、今のうちに定期的に顔を合わせるつながりを作っておきたかった。何か同じ目的に向かって活動できる仕組みを作りたかった。それには幾ばくかの期間に和子と話をし、賛同を得られる活動を探し、協力できるようにしておきたかった。そう思うと今は異動をしない方が良かった。
翌日、哲史は特別支援学級の主任に今回の異動についての考えを伝えた。自身が異動対象になっており、今年度、校長の人事構想でそれまで続けてきた通常学級担任から特別支援学級の担任になった。担当する子供たちの課題と向き合い、できる限りのことをしていこうと一年間頑張ったが、校内の事情とはいえ、直ぐに異動させるとはどんなお考えなのか真意を問いたい、校長と面接になった場合、それを話すつもりだがご意見を伺いたいというものだった。主任は、哲史の現在の配置となった経緯を斟酌してくれ、伝え方を誤ると相手を怒らせることになると助言をしてくれた。また、おそらく今回の異動の候補の筆頭にはなっていないので校長の出方を窺ってから動いた方が良いと教えてくれた。哲史も十分納得いく返事だったので、同僚の言葉に従うことにした。和子との近しい関係を保つという目的は話せなかった。哲史は今回、職場での自分が置かれた立場を全面に出すのは、前の年の学級経営がうまくいかず、学級の子供たち、保護者、そして校内の先生たちに迷惑をかけてしまい、次の年の希望を伝えられる立場でなかったこと、校長の総合的な判断で特別支援学級の担任を命じられた事実を伝えないと、異動を迫られた時に断れないと判断したからだった。さらに、踏み込むと、哲史は現在、置かれている特別支援学級の担任は再起を図る唯一の場であり、これまでの教員生活十五年の経験を総動員させて必死で働いていた。そんな姿を和子は肯定的に認めてくれていた。哲史は、和子のことに思いを寄せるようになったのは、そんな経緯が働いていた。哲史の職場には、他にも容姿の綺麗な女性や親身になって対応してくれる女性はいたが、和子は最近の三年間で仲良く飲み歩いた時期があり、哲史が職場でうまくいかなかった姿を見て、その上で好意をもってくれていたことを考えるとかけがえのない唯一の存在にしていた。
*
臨時休校期間中、三密を避けるため哲史の職場では出勤が制限され在宅勤務が続く日が多かった。哲史は休校で自宅で過ごしている息子たちの世話をしながら事務作業をしていた。中学生になった長男と小学四年生の次男、そして小学校に新入学になる三男を相手に一人一時間の勉強をし、この三セットを終えたところで昼になる。哲史が昼ご飯を作り、三人に食べさせた。食事を終えたところで妻の梨奈がパートから帰宅する。その後は事務仕事でパソコンに向かい、終業時刻を迎える頃、勤務先に電話を入れる。そしてその日の新規感染者の数をニュースで知る。こんな生活を繰り返した。たんぱく質をしっかり取り入れる食事と十分な睡眠をとり、免疫力を下げないようにお酒を飲むのも止めた。このような生活を繰り返し、新型コロナウィルスの流行が過ぎ去るのを心待ちにした。ただ変化の乏しい生活はフラストレーションが溜まり、普段、家では温厚だった哲史が些細なことでイライラすることが多かった。ある時、長男が食事の席で咳こみ、口を押さえずにいるのを哲史は我慢できず長々と注意した。咳エチケットを話し、一度の咳で見えない飛沫が広範囲に飛ぶことを伝えた。しばらく黙って聞いていた長男は突然、
「うるせぇ。こっちだって我慢してんだ。」
と言った。小学校の頃のような素直さがなくなっていた。
「何だその言い方は。」
哲史がすかさず反応した。すると梨奈が
「パパ、あなたが悪い。」
と言い出し、息子の肩をもった。哲史は腹の虫がおさまらず、
「何で俺が悪いんだ。咳エチケットをしろと言ってんだ。」
と再び言い返した。
「はいはい、あなたがおかしいのよ。みんな、パパの言うことを聞かなくていいから。」
梨奈の言葉で哲史は黙り込んだ。途中だった食事をさっさと済まし、席を立った。
*
遮断機越しに電車が通過するのが見えた。遮断機が上がるとすぐに哲史は踏み切りを渡り始めた。渡り切る途中に後ろから
「哲史さん」
と誰かから呼ばれた感覚を覚えた。驚いて振り向くとそれらしき人の姿はなかった。車輪がレールを擦りながら立てる音のようにも聞こえ、どちらなのか戸惑った。西の地面近くの空は橙色に輝いていた。
「ただいま。」
「パパ、ちょうど良かった、敬太を英語教室に連れて行って。」
哲史は家に着くと梨奈から三男の送りを頼まれた。敬太は玄関で支度を済ませていた。
「分かった。じゃあ、行ってくる。」
早速、敬太を連れて外に出た。家の前の通りを歩くとすぐに商店街に入った。三男が先に立ち、後から哲史が付いていく。向こうから和子に似た女性がやって来た。相手はマスクをしているので本人なのかは判別し兼ねた。ただ擦れ違うとき、じっと見られているなと感じた。呼び止めようかと迷ったが三男の送りが優先だと気持ちを切り替えた。三男を送り届けるとすぐに引き返した。まだそんなに先に行っていないはずだ。商店街に着くともと来た道を引き返した。しばらく歩くとコンビニの前で先ほどの女性が買い物を済ませて出てくるのが見えた。駅に向かって歩いて行くと見え、哲史も後を付けた。二人の距離はみるみる狭まった。あと少しで並ぶほどに近付いたが話し掛けて良いものか迷った。まだ相手が和子と決まった訳ではないのだ。そう思うと追い付く気にもならず、一定の距離を保って歩き続けた。駅のすぐそばの踏み切りまで来た時、遮断機が鳴り始めた。すると前を歩いていた女性が駆け足で踏み切りを渡り切った。哲史もそれに合わせて駆け込めば渡り切れたが、電車の通過待ちで距離を開けてみても良いのではと思い、手前で立ち止まった。やがて遮断機が下り、目の前を電車が通過した。ようやく遮断機が開き、前を見ると女性の姿は消えていた。
*
十二月上旬並みの寒い雨の晩だった。コロナ禍の臨時休校が影響し変則的な二期制となり、前期成績提出が十月二十三日となっていた。成績を終わらせようと所見の文章を作文していると副校長がやってきた。
「まだ帰らないのですか。私はもう帰りますよ。あと、残っているのはあなたと奥寺先生だけですよ。本当に帰らないんですね」
「あと少しなので終わらせて行きます。」
「わかった。あと、よろしくね。」
和子と二人だけになってしまった。普段から意識しているだけに緊張するなぁ。気が気でなくなってきた。自分の思いだけ募らせてぎごちないやり取りになってしまわないか不安になった。和子が残っているのはわかった。仕事を先に終わらせて帰ろう。
夜の七時を過ぎた。所見は仕上がっていた。これ以上、続けられない。職員室に行って和子に挨拶をして帰るしかない。校舎に二人だけになってしまったことを意識するとドキドキするのでさり気なく会話をし、帰ることにしよう。ただ、あまり素っ気なくなってもいけない。どうしよう。
「遅くまでお疲れさまです。」
職員室に入ると和子がパソコンのモニターを見ながら仕事をしていた。
「まだ仕事をしている人がいたんですね。」
そう話して和子を見ると、マスクを外していた。久し振りに見た素顔だった。可愛かった。
「奥寺先生は五年生担任でお仕事たくさんで大変ですね。」
「今回、成績を仕上がるまでに目測を誤りました。」
「学習発表会の方は目途が立ちましたか?」
「何とか。」
「奥寺先生一人を残すのはおこがましいのですが私は帰りますね。」
「はい。お疲れ様でした。」
哲史は和子を残し、職員室を出た。素っ気ない会話になってしまったが、仕方あるまい。これ以上、不自然にシチュエーションを作り出す自信もない。更衣室で着替えている途中で財布を机の中に入れたままだったことに気付き、取りに引き返したが職員室が違うので和子と顔を合わすこともなかった。着替えも終わり、更衣室を出た。まさか和子と校舎で二人だけになるなんて想像しなかった。そんなことを思いながら一階に降り、玄関まで行くと施設管理室が真っ暗なのが分かった。最終退出だと警備システムをセットしなければいけないんだった。哲史は何度も最終退出者になったことがあるので平気だが、和子はセットできるのか不安になった。声だけ掛けていくかぁ。哲史は再び階段を上がり、職員室の扉を開いた。
「奥寺先生、施錠は大丈夫ですか?」
「ああ、たぶん大丈夫だと思う。」
「一応確認すると玄関の脇にある主事室に入ってすぐの警備システムのボックスのボタンを押して、部屋にある机にあるキーカードを差し込めばセット完了になります。念のため、見に行きますか?」
「そうですね。それだと確実です。」
まさか和子と並んで校舎を歩くことになるとは想定しない展開になって哲史は驚いた。並んで歩くと和子は女性にしては結構背が高い方だなと思った。
「一度、警備システムをセットしてみましょう。」
主事室の扉を開くと先に和子が入った。哲史は電気を付けようと後から扉を入ってすぐ横にあるスイッチに手を伸ばし、スイッチを入れると後から和子の手が伸びて来て、哲史が付けた明かりを消してしまった。手が触れそうになったので慌てて哲史は手を引っ込めた。
「すみません。電気を付けますね。」
哲史は気が動転しながらもどうにか電気を付けた。落ち着こう、平静を装って受け答えしよう。
「まず、ここのボタンを押します。次に、そこの机の中からこの鍵を取り出して、ここに差し込んで抜きます。それで、退出します。入る時はもう一度鍵を差し込むと警備システムは解除されます。」
哲史はそこまで説明を終えると主事室の扉を開き、和子を先に出して自分も廊下に出た。
「私はこれで失礼いたします。」
「ありがとうございました。」
和子はそう言って職員室に向かって立ち去った。
*
コロナ禍は一年経っても終息に向かう気配を見せず、感染者を急激に増やし、その後、数を減らすを数ヶ月おきに繰り返した。東京オリンピックが開催する七月、職域接種で哲史も外国製のワクチンを打てることになった。住んでいる区でも接種可能だったが、新規感染者が増え続け、感染しても自宅療養になる件数が一万件を越えていたため、早くに打てるように職域接種を選んだ。Webで指定した日時の中で受付しているところを選ぶことができた。夏休みに入る直前だったので比較的休みが取り易い時期で平日に予約が可能だったが、わざわざ接種するためだけに職場近くに来るよりも仕事帰りに立ち寄る方が都合が良かった。哲史が接種した翌日に副反応が出ても家で休めるような日を探して見ると海の日の前日がまだ空きがあった。ふと夏休み中の日直当番でこの日、和子が当たっているのを思い出した。もしかしたら会うかもしれないという淡い期待が頭に浮かんだ。
*
ワクチン接種会場に設置されたのはホテルの大広間だった。エントランスで案内されていた階でエレベーターを降りると廊下には哲史と同じように職域接種を申し込んだ人で溢れていた。申込む際、予約時間十五分前までの来場は遠慮するように注意書があったのでギリギリの会場入りだった。受付用に急ごしらえで設置されたと思われる長テーブルに行くと前の回の受付時間帯だったため、しばらく待つように言われた。廊下の両側に置かれた一人掛け椅子に着くと向かいの席にも誰かが座っていたが見知った人はいなかった。会場に向かう前に職場で職員接種日一覧を見ると哲史が思ったとおり、和子は日直当番を終えた後に接種予約をしていた。哲史とは時間帯が同じではなかったが続きの時間帯だった。和子が早く来場すれば会うかもしれないと思うと気もそぞろになり、早く済ませてこの場を去りたいと思った。ようやく受付順がくると辺りを見渡さずに受付台の前に並び、提出用の書類を渡した。案内されるまま接種会場に入り、注射の痛みがないのが分かったが、接種後の十五分も腰が浮いたように落ち着かず、十五分が経過するとそそくさと会場を出ていった。駅に向かう途中の交差点で信号待ちをしていて、向かいで待っている人影に目を移すと和子がいた。白を基調とするブラウスにロングスカートを履いていた。少しうつむき加減で足元を見ており、こちらに気付いているのかは確かめられなかった。信号が青になり、信号待ちをしていた人々が一斉に歩き始めた。哲史も人の流れに乗って前に進み始めた。目線の先は和子だった。距離が縮むうちにふと、このまますれ違うこともできるなと思った。いや、待てよ、職場以外で会うなんてめったにないぞ。声だけは掛けよう。和子はまだ気付いていない。
「お疲れさまです。」
「まぁ、ワクチンを済ませたのですか?」
「はい。」
「私の方はこれからです。この先を行けばいいですか?」
「ええ、道なりに行っていただければ。」
和子は身をくの字に屈ませ、哲史に礼を行って立ち去った。ワクチン接種は二回セットになっており、四週間後同じ会場で行われることになっていた。指定していた時間帯が近ければまた会場近くで会えるのではと淡い期待があった。
*
夏のオリンピックが終わり、日中は残暑の厳しい一日だった。哲史は接種券と予診票を鞄に入れ、自宅からワクチン接種会場に向かった。ちょうどお盆の時期で、夏季休暇や土曜勤務の振替で休みが続き、久しぶりの外出だった。会場には予定より早く到着し、ロビーの隅の椅子に腰を掛けた。待つ時間にスマホのgoogle seach consoleを開いた。最近、自分で立ち上げたホームページにどれだけ閲覧があったのか、その表示回数を見た。毎回見る度に、折れ線グラフは「0」か「1」かの表示回数で低迷を続けていた。確かに自分の書いた小説を発表する場にするため、こっそり始めたサイトだったので誰からも気付かれずにいた。たまたまサイトを訪れた人が作品を読んでくれれば良いと思った。だが、表示さえしてもらえないサイトは寂しい。そこで目を引くような呼び水でもあれば、表示される回数が増えるのではと考えた。例えてみれば遊園地にあるモニュメントのようなものだ。哲史が考えたのはトップページにカレンダーを表示させた。さらに哲史がコロナ禍以降の生活で意識するようにした十干十二支の漢字二文字を暦に合わせて配置した。哲史はコロナ禍でイベントが軒並み中止になり、日々の生活が単調になってしまったことを嘆いていた。日常に何か変化を付けられないかと考えていた時期に陰陽五行道の考えを知った。その考えによると古代の人は日ごとに十干十二支の組合わせを配置し、組合わせから吉日や災いをもたらす日などの意味付けをしていたことが分かった。さらに星の運行からも吉凶と結び付けていたことが分かった。哲史はこの陰陽五行道の考えを生活に取り込めば日常がもっと豊かになるのではと考えた。その世界観をホームページのトップページに作り上げた。また、このカレンダーには季節ごとに夜空に見える星が分かる簡単なアプリケーションも貼り付けた。だが思ったような効果は表れなかった。
「十八時から予約の方、お並びください。」
それまでロビーの各所に時間待ちをしていた人が一斉に受付に集まり始めた。哲史は受付テーブル近くに陣取っていたが、先に並ばれてしまったため、後ろに回ろうと列をかき分けて行った。
「中本さん。」
突然、声を掛けられ、誰かと思って見ると同僚だった。
「一緒の時間でしたね。」
哲史がそう返事すると、
「他にもいますよ、長谷川さんもいますし、奥寺さんもいますよ。」
同僚が指した後ろを見ると和子がいた。照れくさそうに会釈していた。
「お久しぶりです。」
「どうも。」
同僚達と久しぶりの再会だった。哲史が
「夏休みももう終わりますね。」
と言うと、同僚が
「本当、あっという間でしたね。」
と答えた。和子も話の輪に加わり、
「今回の夏はどこにも出掛けられず何もしてないわ。」
と答えた。哲史がすかさず、
「早くコロナが終息して欲しいですね。」
と話した。一通り話を済ますと固まって列に並んだ。和子は哲史の後方に付いた。受付が済むと医師の問診をし、その後、接種のブースに案内された。哲史が接種を受ける席に付くと和子も同じブースに案内されたようで哲史のすぐ後に接種を受けることになった。接種を済ませると持ってきていた接種券にどのワクチンを受けたのか証明するステッカーが貼られ、接種した日付を記入してもらった。それが済むと接種後、十五分間の会場待機の席に案内された。まとまって受付を済ませていたため、待機するのも同僚達と一緒だった。
「また、副反応出ますかね?」
哲史が先に座っていた長谷川に話掛けた。そこへ後から和子が接種を済ませて哲史の隣りに座った。
「私は結構、熱が出ましたよ。三十八度を越えました。その日は一日、駄目でした。」
長谷川は会場にはそぐわない程の声で喋りだしたので近くにいた係員に静かにするように注意を受けた。その後は黙って向かいで受付をしている人や待機する人が見易いような箇所に掛かっている時計の針の動きを見ていた。和子はスマホを開いたり、顔を上げ、時折り深いため息を吐きながら時間を潰していた。哲史は和子と並んで座っているのに黙ったままでいるのは妙な感じがしていた。ただ先の長谷川のように喋っているとまた係員から制止されるので仕方ないと観念して時間を過ごした。やがて十五分が経ったことを確かめると、和子に向かって
「十五分が経ちましたね。行きましょう。」
哲史が声を掛けると和子を始め、同僚が一斉に立ち会場の出口に向かった。エレベーターに乗り、ドアが閉まると哲史は口を開いた。
「窮屈でしたね。話もできない。」
和子は哲史の方を向いたが特にそれに対する反応はなかった。外に出てぞろぞろと駅に向かって歩き出した。無言になるのを嫌い、哲史が
「今回も熱が出ますかね?」
と言うと、
「前回、僕も熱が出ました。」
ともう一人の同僚の柏木が返事した。
「もうすぐ二学期が始まるね。」
「本当だわ。気持ちを切り替えないといけない。」
「休みボケした生活もあと僅かですね。」
口々に話をしていると最寄りの地下鉄の入口に着いた。哲史は、もう少し先のいつも通勤で利用している駅まで歩くことを伝え、一人先に別れを告げた。そのことを知ると和子は地下鉄の入口に向かっていたのをわざわざ引き返し哲史の正面に立ち、さよならと挨拶をした。哲史も一緒に挨拶を済ませてその場を一人辞した。
*
「パパ、今日の昼過ぎに子供たちが児童館で遊ぶ約束をしたからあなたも一緒に行ってくれる?」
梨奈がパートに出掛ける前にそう言い残した。天気予報では昼過ぎから下り坂になり、上空の寒気の影響で雪が降ると伝えられていた。これから雪が降るというのにわざわざ外に出るのかと気が乗らなかった。
「息子二人が行くのだし、わざわざ親が付き添いに行かなくてもいいだろう。」
と哲史が言うと、
「うちだけ子供だけで行かせて悪いでしょ。」
と梨奈に押し切られた。梨奈がそこまで言うのなら仕方あるまいと哲史も従うことにした。梨奈が出掛けた後、三男がソフトキャンディを食べていて詰め歯が抜けた。抜けたところから虫歯が拡がる怖れがあったので哲史は掛かり付けの歯医者に連絡を入れ、事情を話すとその日の夕方に予約がとれた。三男には夕方になったら遊びの途中で抜けて歯医者に行くことを伝えた。
昼過ぎに息子たちを連れて外に出ると雪が降り始めていた。厚着させて出掛けたがひんやりと底冷えする寒さに身体が震えた。待ち合わせの児童館に近づくと息子の友人らしき子供が雪が降りしきる中、傘も差さずに自転車を引いて児童館に向かっていた。次男に友人か尋ねると多分と曖昧な返事をした。児童館に到着し、哲史の方から挨拶すると軽く会釈して応えてきた。約束の時間になっていたがその子の他に数名の子供がいるのだが声を掛け合う様子がなく、しばらくその場で待つことにした。やがて家に度々出入りして馴染みの女の子がやって来た。梨奈がこじんまりと自宅の一階で開いている習字教室に通っている子だった。梨奈が哲史にも一緒に行くように促したのはこの子に気を遣ったからかもしれないと哲史には思えた。今回の遊びを企画したのはこの女の子なのだろう。その子が来るととりあえず、児童館で遊ぼうと言い出し、ひとまず建物の中に入ることにした。結局、子供だけで七、八名が集まり、付き添いの親は哲史だけだった。やれやれ、そんなことだろうと思った。すぐに気持ちを切り替え子供たちの付き添いとして振る舞うことにした。その後、二階でビリヤードをしたり、中学生が部屋に詰め掛けてきた来たので一階に戻り、バスケットボールをして過ごした。外は本降りの大雪になり、そのうち子供たちが雪で遊びたいと口々に言い出した。やがてその場を仕切ってくれていた女の子が公園に行こうと言い出し他の子供たちも従った。外に出るとあちらこちらに雪が積もり始めていた。公園へ行くと地面はすっかり雪で覆われていた。子供たちはすぐに遊び出し、雪をかき集めては他の子にぶつけたり、即席の雪だるまを作り始めた。公園に来るまでにだいぶ時間が経っていたので、すぐに三男を歯医者に連れて行く時間になった。夢中で遊んでいる三男に中断を伝えるのが忍びなかったので、あと五分で歯医者に行くと伝えた。三男もその時はしぶしぶ分かったと返事をした。時間になるとすんなり付いて来たので満足したのかと思ったが歯医者の前でやっぱりまだ遊びたいと言い出した。詰め歯が取れたのと次に治療を受けられるのが先伸ばしになると症状が悪化する心配があったので治療が終わったら行こうねとなだめて歯医者に連れて行った。予約して行ったが前の患者の治療中ですぐには治療にならなかった。ようやく名前を呼ばれて三男が診察室に入った。待ち合い室で待っていると哲史の携帯に公園で遊んでいた次男からメールが入った。見るともう解散して家に着いたという連絡だった。雪が降りしきる中での雪遊びだったので寒さにこらえるのもすぐに限界になったようだ。三男の治療が済んで外に出た時にもうみんな帰ったと伝えると三男がパパ馬鹿と言い出し、暴れ始めた。挙げ句の果てに哲史の足を蹴り始めた。哲史も子供とはいえ蹴られると痛かったのでかわすと三男が滑って背中から転がった。雪で覆われている路上で起き上がろともせず身をよじらせて手足をばたつかせ始めたので哲史は三男を抱えて家に戻ることになった。家に着くと三男は風呂にも入らず、布団にもぐり込んで出て来なくなった。先に帰った梨奈が三男の様子に気付き、哲史が事の顛末を伝えるとあなたが悪いと言い出した。東京で雪が降るのはめったにないことだから歯医者に予約したあなたが悪いと言い出した。それを聞いた哲史は堪忍袋が切れて梨奈を非難し始めた。まず、そもそも哲史が付き添う遊びを断りもなく取り付けたことを非難した。次に、百歩譲って良しとしても歯医者の治療を優先させたことがなぜいけないのかと梨奈をなじった。梨奈もどうせ乳歯でしょ、考えれば分かるじゃないと言い返す始末だったので、哲史は腹の虫がおさまらず、食事もせずに寝室に向かい寝ることにした。布団に入ったからといってすぐに寝付けず、腹もすいていた。梨奈はしばらく息子たちに哲史を悪く言いふらしていたが、やがて落ち着いたのか静かになった。しばらくするとお隣さんが雪かきしているんだけど一緒にしないかと声を掛けてきた。哲史が寝たふりをしていると、
「ふて寝しやがって。」
と悪態付いて梨奈は一人雪をかきに外に出て行った。哲史が布団に入っている部屋の中にも梨奈が雪をかく音が聞こえていた。さすがに哲史は一緒に出来ずにいることを申し訳なく思った。この家で過ごし始めてからこれまで何度か大雪に見舞われたことがあった。一番古い思い出は同居していた義父と一緒に雪かきをした。街灯が照らす路地をせっせと二人で雪をかき出していると近所の古くから住んでいる人達が気付いて一緒に参加してくれた。その次に雪が降った時には近所の人もだいぶ年をとって体力が限界だったのか出て来てくれもしなかった。その時には義父も他界していたため、一人で雪をかいていると梨奈が出て来て手伝ってくれた。そして今回、梨奈が一人で家の前の雪かきをしているのに哲史がぬくぬくと布団に横になっているのが心苦しかった。それでも布団から抜け出して参加する気にもなれず、梨奈が早いとこら雪かきを切り上げてくれればと願った。だが梨奈は念入りに雪をかき出すつもりらしく、いつまでも雪をかき続け、ようやく玄関に戻って来たかと思うと今度は風呂場に行き、浴槽に貯めたお湯を桶に入れ、再び外に出て雪をお湯で溶かしてさらに雪を除こうとしていた。ようやく作業が終えたのはだいぶ時間が経っていた。すっかり身体が冷えきっているに違いなかった。こんなタイミングで梨奈と言い争わなければ良かったのにと悔やんだ。
*
「今朝、社長に呼ばれてこのままだと担任三名が維持できなくて一人が過員で異動になるって言われたよ。」
校長室から戻ってきた哲史が配属している特別支援学級の主任が教えてくれた。現在、主任と哲史、来年度の六月に育児休暇に入る同僚の三人体制で担任をしていたが、五名の卒業生
が抜け、新入学が一名なので児童数が八名になる。区の制度で児童三名に付き担任一名と決まっているので担任二名になる。誰が異動対象になるかと考えた場合、主任と育児休暇の同僚が残り、哲史に決まる。二月になると教員の異動配置が決まっていくので一月中に異動の手続きをした方が通勤圏内や本人の異動希望を考慮してもらえる。また、異動先が決まらない教員がいる状況を作ってしまうと学校の管理職の服務事故になるため、管理職がリスクを背負いたくない。哲史も異動が避けられないと判断できたため、異動を固辞する気にもなれなかった。哲史はまず家族のことを思い浮かべた。これから長男が高校入試を控え、その後、次男、三男と続く。家族を支える最も大切な時期に入っていた。次に和子のことを思った。和子は着任六年目だったが一年延長を申し出て受理されたことは聞いていた。哲史は五年目であと一年、本来なら残留できるのだが児童数が定数を満たないため異動になった。おそらく離ればなれになれば、日を追うごとに気持ちが離れていくことは間違えなかった。また、哲史には今、家族を捨てて和子に向かって積極的にアプローチする気にはなれなかった。決断の時だった。家族を守って異動に踏み切るか和子と一緒になるか。哲史のこれまでの経験から選択肢は一つだった。
*
「六年生が三月に社会科見学に行くからうちの学級の六年生も参加させるけど引率は誰がいく?」
主任からそう言われた。六年生は和子が担任している学年だった。特別支援学級では六年生の担当は哲史と育児休暇を予定している同僚との二人だった。どちらかが引率することになる。
「佐々木先生と相談してみます。」
そう答えた後に、哲史は和子が参加する行事に進んで参加する気にならなかった。必ず参加しなければならないならともかく、今回は参加を選べた。同僚の佐々木と話をすると六月に育休を控えているとはいえ、今回、移動がバスなので引率はできると言っていた。また、どちらでも構わないと言っていた。哲史の結論は一つだった。
「佐々木先生が六年生の引率に行ってほしい。」
*
和子に社会科見学の引率は佐々木先生が行くことになったことを伝えると表情も変わらず承諾された。最早、哲史にとって和子に接近する機会は必要なかった。
社会科見学当日、主任の家族が新型コロナに罹患したため、濃厚接触者になった主任は自宅療養になっていた。留守居役の哲史にとっては多少の痛手であったが残された子供たちを指導することは可能だった。六年生が朝、バスで出発し、昼の給食準備中に職員室から連絡が入った。佐々木が長男を預けている保育園からの連絡で発熱したのですぐに迎えを寄越してほしいという話だった。何時もなら佐々木に連絡するのは主任の役目なのだが不在のため、佐々木に事情を伝えるのは哲史しかいなかった。哲史はまず佐々木の携帯電話に連絡をとった。いつまでも応答待ちのコールが続いた。仕方なく、佐々木のLINEにメッセージを送信した。しかし既読にはならなかった。今の時点では伝わったとは言えない。社会科見学に管理職として引率していた副校長にメールでメッセージを送った。哲史は副校長の電話番号を登録していなかったので電話連絡できなかった。さらに六年生の各クラスの担任に連絡をした。和子にも電話を入れ、応答がなかったのでショートメールでもメッセージを送った。しかし、誰にも繋がらなかった。子供たちを引率中のため、携帯に気付かないのは当然だった。哲史は最後に休暇だった主任に佐々木に連絡を繋ぎたいが繋がらずにいることをLINEで伝え、ひとまず子供を残している教室に戻った。給食の食事中、携帯に着信の反応が入り、画面を覗くと佐々木に繋がったという内容のメッセージが入っていた。主任が副校長の携帯に連絡して繋がり、引率中の佐々木に伝えてくれたらしい。これまで送った同僚からの返事も入っていた。和子からは返事がなかった。まだ気付かないのか、それとも佐々木本人が保育園に連絡しているのを現地で見ており、用件が解決されたと判断したのだろう。哲史としては他に連絡した同僚と同様に返事の一つくらいくれても良いのにと思ったが、そこは個人の判断なので仕方のないことだった。その後、六年生のバスが学校に到着し、和子の姿を見たが哲史は素知らぬ振りをした。今回の携帯電話に連絡を入れたのは特別支援学級の担任側の不測の事態でやむなく連絡したのであって和子が引率した学年の子供たちに関わるトラブルではなかった。和子に直接関わることではないので返事を返す義理はないのだと考えることによって哲史は納得しようとした。子供たちが下校し、廊下に出ると前方から和子がこちらに向かって来るのが見えた。携帯電話を手にし、いくぶん早足で向かって来ていた。
「奥寺先生、今日は児童対応中に連絡してしまい、すみませんでした。」
「いいえ、こちらこそ気が付かなくてごめんなさい。」
「とんでもないです。今回は特別支援学級の担任サイドで起こったことなのでご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした。」
そう哲史は言いたいことだけを伝えると歩きながら頭を下げ、和子とすれ違った。その後、和子に送った連絡メッセージを見ると既読のマークが付いていた。
*
卒業式、修了式が済み、職員に異動の発表があった。哲史は異動となり、和子は残ることが決まった。哲史は荷物の整理に入り、すぐには和子に別れの挨拶はしなかった。三月三十一日に最終出勤日があり、そこで挨拶する機会があった。哲史は荷物整理に専念し和子と接触する機会を絶つようにした。和子も哲史を訪ねてくることはなかった。校内にいながら全く顔を会わすことのない日には、廊下で学校を訪ねてきた保護者に対応する和子を見たが哲史は軽く会釈をして前を通り過ぎるだけで話はしなかった。あと二日に迫った日、哲史は使わなくなった文具を事務室に戻しに行った。事務室の隣の印刷室で和子が個人情報の書類をシュレッダーで処理しているのが見えた。哲史は一度はその場を立ち去ろうと考えたが和子につれない態度で別れなくても良いのではと思った。対立した訳でもなく、こちらから一方的に避けていても和子へ悪い印象を与えるだけであった。哲史としてはこれまで恋慕の対象であった和子に異動で職場が変わることを伝えたくなった。哲史は覚悟を決めると和子に近づいた。
「お疲れさまです。」
「ああ、お疲れさま。」
和子から普段と変わらない返事が返ってきた。
「まさか私の方が先に異動になるとは思いませんでした。私は奥寺先生を見送るものだと思っていました。」
「そうですね。」
その後、しばらく沈黙が続いた。和子は手を止めていた作業の続きを始めた。哲史は前から決めていた言葉を伝えた。
「お世話になりました。」
和子は哲史の言葉に返事しようと再び振り返り、
「こちらこそお世話になりました。」
と言い、その後お辞儀をした。哲史は印刷室を後にした。
*
三月三十一日、哲史は担当していた仕事の引き継ぎを済ませ、職員一人一人に挨拶に行った。職員室に入ると和子は他の同僚と談笑しているのが分かった。哲史は入口近くの同僚から簡単な挨拶と餞別の品を渡していった。和子がいるグループまで来ると和子も周囲で哲史が挨拶をして回っているのを察し談笑が中断しても哲史が回って来るのを待っていた。ようやく和子に挨拶することになった。
「奥寺先生とは私が着任した時期によく飲み会に行って楽しかったのを覚えています。あの時は本当に楽しかったです。」
「そうそう、よく飲み会に行きましたね。その後は中本先生、ちっとも飲み会に参加しないから。」
和子からそう言われてしまうと確かにその通りなのだが、新型コロナウィルスが拡大し始めてからは哲史は飲み会の誘いを断っていた。もし感染した場合、家庭内で広げるリスクが避けられない。哲史や梨奈はワクチン接種を済ませているので重症化を防げるが子供たちは未接種なので感染の危険に晒されてしまう。哲史は梨奈と感染症が終息するまでは飲み会には参加しないことを確認していた。また、梨奈が訪問看護をしているため、リスク回避に並々ならぬ神経を尖らせていた。コロナ禍では感染が急拡大している時期は飲み会の誘いは当然なかったがまん延防止予防措置が解除された後は少人数での飲み会が行われていた。また、和子が参加する飲み会もあることは知っていたが、哲史には行けば楽しく過ごせるのを分かっていながら私は行けないと頑なに態度を貫いた。コロナがなければ今回のような別れ方はなかったのかもしれなかった。
「すみません、行けなくて。コロナがなければなぁ。」
「そうですね、昔はいっぱい飲みに行きましたね。世田谷でも何度か飲んだし。そうそう、あのバーにも行きましたね。」
和子がそう言ったので、哲史は驚いてしまった。そこのバーで飲んだ出来事を哲史は自分の小説の中で取り上げていた。また、哲史が発表に使っているホームページにも作品が掲載されているがまさか和子が読んでいることは考えられなかった。あのサイトは未だに閲覧者が一日一名あるかないかの低迷を続けているのだ。和子の話に気の効いた返事も出来ず、そそくさと挨拶を済ませ職員室を後にした。
夕方、異動する教員のお別れの会があった。和子は緑色のブラウスを身に付けて現れた。これまで見たことのない服装だった。哲史はお別れの会で服装を改めず、ジャージで参加したことを悔いた。あまりにも気が抜けてしまっていた。一言ずつ挨拶する機会があり、哲史も簡単に話をして済ませた。終業時刻を過ぎたので職員室で最後に挨拶を済ませると見送られながら職場を後にした。見送る人の中に和子もいた。笑顔で手を振ってくれていた。これでいよいよお別れだと改めて哲史は自分に言い聞かせた。
*
長引くコロナ禍に加えて二月にロシアによるウクライナ侵攻の余波で物価が高騰するようになった。家計の財布の紐は当然締まり、いかに節約した生活をしていくかが真っ先に思い浮かべるようになった。世間一般が当然、同じことを思うだろう。この先、景気が冷え込んでいくに違いない。子供たちを一人立ちするまでは今の生活を維持することが最優先だ。哲史は家族を守る父親としての意識が高まるのを感じていた。最近、哲史は「酵素シロップ」という家庭で簡単に出来る調理を始めた。哲史はガラス瓶の蓋を開け、砂糖漬けになった果物に手を入れかき混ぜ始めた。一日一回手でかき混ぜて底に沈殿している砂糖を果実から流れ出た果汁に溶かし込む。この日課を十日間続ける。材料費は味のベースとなる柑橘類と数種の果物と砂糖で千円位の費用で済む。日に日にシロップが熟成されていくのを見るのも楽しみの一つとなった。ソーダ割りにすると爽快なのど越しが楽しめた。家族にも好評だ。また、休みの日で時間がある時には放送大学のテキストで勉強を進める。特別支援学校の教員資格を取得するために始めていた。時間がある時に今、出来ることに専念することで日々の充実感を実感できるようになってきた。他にも子供たちの習い事の送り迎えの役もこなした。コロナ禍以前は三人の息子全員に剣道を習わせていたがコロナ禍で休止になり、その間、長男は中学校で吹奏楽へ、次男はテニスを習い始め、三男は再開した剣道教室に通い始めた。次男をテニスに連れて行き、一緒に帰って来ると次に三男を連れて剣道に行く日も週一回はあった。することが多く、時間が足りないくらいだった。また、異動をしてみると、年度初めの慌ただしさで和子のことも忘れるほどであった。和子に似た体型の女性に和子の姿を重ねてしまったり、ホームに入って来た緑色にラッピングされた電車を目にした瞬間に最後に会った日の和子の服の色を思い浮かべたりすることはあったがかつて特別な存在だと思えていた和子の存在はもはやそれほどでもなかった。人は思い詰めてしまっている時にはより一層、冷静になる必要があり、客観的な視点で物事を捉え直すことが大切だと思った。
四月のある晩、職場の仕事からようやく解放され、哲史は家路に向かっていた。多摩丘陵を貫く幹線道路を横切る歩道橋の上で、視界が開けて夜空の星が見えた。西の空にはオリオン座が見えた。東の空には薄い雲にかかった北斗七星が見えた。大熊座の一部を構成し、そのしっぽ先を伸ばしていくとオレンジ色の星が見える。春を代表するアルクトゥースだ。さらにその先には青白い星のスピカが見えた。この二つの星は夫婦星と呼ばれ、夫はアルクトゥースで、妻はスピカだそうだ。星の話によるとアルクトゥースはスピカに向かって動いていて六万年後には一緒の位置になるそうだ。哲史は二つの星をしばらく見つめていた。
*
遮断機越しに電車が通過するのが見えた。遮断機が上がるとすぐに哲史は踏み切りを渡り始めた。渡り切る途中に後ろから
「おうい。」
と誰かから呼ばれた感覚を覚えた。驚いて振り向くと梨奈が自転車を引いていた。
「どうしたの。こんな時間に外にいるの?」
「パン粉が足らなくなってね、買い出しに行ってたところ。」
梨奈はそう言って哲史の隣に並んだ。こうして二人きりで一緒に並んで歩くのは久し振りだった。
「メールをくれれば買って帰ったのに。」
「コロッケを作っていたらパン粉が足らなくなってね。早く作らないと子供たちがお腹を空かすでしょ。」
「最近、よく食べるようになったよな。」
「本当に米の減る量も半端ない。」
「コロッケ、敬太の好物だからな。」
「あなたの今の給料じゃ、足りないわよ。」
「そういえば、この間、久し振りに敬太と風呂に入ったら、お腹がぷっくり出ていたぞ。」
「あなたがいけないのよ、ジュースだとかお菓子をすぐに買ってくるでしょ。」
「今後は気を付けるよ。だがあのままだと発育測定で軽度肥満を言われるぞ。」
「もうそうなっているわよ。」
「こんどから毎週末、私がプールに連れていくよ。」
「コロナが心配だけれどお願いね。」
家にたどり着き玄関のドアを開けるとすぐに二階から子供たちのおかえりなさいの声が聞こえてきた。
完