「デジタル貨幣誕生前夜」


「オッケー!マイニングに成功したよ。」
中央演算装置をグラフィック処理を専用にしたものに入れ替えると永野が思ったとおりパソコンの計算速度が高まった。そこで、吉野からお願いされていたデジタル貨幣の「マイニング」を始めた。しばらくして永野が計算して見つけた数値が最適と認める通知が届いた。デジタル貨幣は「マイニング」と呼ばれる操作で公正な取引が守られる仕組みになっていた。本来、「マイニング=採掘」を意味しているのだが、最適な数値を見つけ出すと一定のデジタル貨幣が報酬で得られる。上手くすれば金鉱を振り当てたように収入が入る仕組みからこの名が由来している。
「吉野さん、本当にこのデジタル貨幣が使えるようになるの?」
永野がメッセージを送った。しばらくすると、メーリングソフトの受信箱に返信が届いた。
「このデジタル貨幣は二重払いが起きない、改竄できない、堅牢なセキュリティが売りの画期的な仕組みでできているんだ。その価値を知ってもらえばきっとユーザーが増えるはずさ。」
永野は再び、テキストにメッセージを入力し、送信した。
「この先の見通しは?」
またすぐに返信が届いた。
「サイトのアクセス数を増やす。そしてデジタル貨幣の価値を広め、実際使ってみてもらえればユーザーが増えていくはず。」
永野はまたテキストにメッセージを入力し送信した。
「まずデジタル貨幣を知ってもらうためにどんな手立てを考えている?」
しばらくすると返信がきた。
「まずはサイトを広めるために広告を出す。無料の掲示板にリンクを貼り付けて誰からもダウンロードできるようにしようと思っている。」
永野はしばらく思案した後、再びメッセージを送った。
「無料掲示板だと投稿者の趣味趣向が様々だから、当然、否定的に受け止める人もネットワークに参加してくるけれど大丈夫なのかな?」

永野はコンピュータ業界に入って同期から初めて教えてもらったのが無料掲示板だった。もとはどこかの企業が所有していた掲示板を譲渡された運営者が無料で開放し、そこに集まったユーザーが次々サイトを立ち上げ、今では日本で最も有名なサイトになったと聞いている。再び受信箱に一通の未読通知が表示されていた。吉野からだ。メールを開くと次のようなメッセージが書かれていた。
「堅牢なシステムは衆目にさらしても耐えうるものでなければならない。私が開発したデジタル貨幣で世に打って出る覚悟はできている!」
時代劇の台詞のような文面だった。吉野はコンピュータには頼もしいが文才は頼りないなと思い、永野は思わず吹き出してしまった。

永野はこれまでコンピュータとは縁のない生き方をしてきたはずなのだが、就職活動で物書きの仕事をしたいと職種を絞り込んだところ、自分の学歴では到底、出版業界に入れる見込みがないことが分かった。そこで昨今、ソフトウェア業界が売り上げを伸ばしており、製品の取扱説明書の業務ならば入り込むチャンスがあるのではと当て推量した。就職活動ではマニュアル制作している部署のある会社を探して試験を受け、筆記は難なく突破し、最終面接まで進むことができた。面接ではテクニカルドキュメント部というマニュアル作りの部署の部長が直接、会って話をしてくれた。履歴書に目を通され、志望に書かれていた書くのが好きに目が止まった。その人から成果物を見せてみろと言われた永野は待ってましたとばかりにカバンの中に忍ばせていた当時所属していた大学サークルの活動紹介の原稿を見せた。内容はともかく、尋ねられたことに応えようとした熱意が伝わったのか? その後、内定をもらえた。そこまでは上々の滑り出しだった。しかし、入社後の初任者研修でフォルダの作り方が分からず、同期からお前、よく入社できたなと呆れられた。研修ですっかり鼻をへし折られた。努力すれば何とかなるが通じる気がしなかった。また、入社したことですでに給料が発生していた。自分のペースで時間を掛けて勉強すれば遅れを取り戻せるはずだという安易な期待はもろくも崩れ去った。社会人としての出発は同僚、上司からパソコンの操作の仕方を聞いて回る立場から始まった。失意のどん底にはまりこんだ永野にも二つの救いがあった。一つは社員寮の同期の仲間だった。そして二つ目が毛髪多めでストレートな髪を肩まで伸ばし、ブラウスの胸の膨らみが目を引く部署の先輩、竹原さんの存在だった。

永野は部長の松澤さんからまず、自分のパソコンを用意するように言われた。そこで同期におすすめのパソコンを尋ねると、自作するといいと言われた。理由はコンピュータの仕組みから分かるからだとアドバイスされた。同期二人がパーツ集めを一緒にしてくれた。二人とも大学が同じだそうで知った仲だった。永野がコンピュータについて質問すると快く教えてくれた。その時もコンピュータの五大要素を順に解説しながら品定めしてくれた。通称CPUと呼ばれる中央演算装置は一度開封すると再び封できない梱包がされているという雑学まで教えてくれた。パーツを買い揃え、寮に戻り、二人から教えてもらいながら何とかパソコンを組み立てた。電源をつなぎ、起動ボタンを押す。パーツを収納したケースの内部から動き始めたことが分かる重低音が聞こえ、しばらくすると画面が映り始めた。プラモデルのように組み立てたパソコンが本当に動くんだという感動があった。その後、仕事に使えそうなソフトウェアを幾つか組み込んでいくと深夜を回っていた。遅くまで作業を手伝ってくれて何と親切な同期なんだと平身低頭の思いで二人に感謝を伝えた。

永野の入社後の挫折を救った二つ目は同じ部署の先輩、竹原さんだ。その日、会社の先輩たちが企画してくれた花見の会があった。永野は初任者研修の自己紹介で教員志望をやむなく蹴り、入社した同期がいることを知り、話しておきたかった。花見の席が近くなるように位置取り、何とか話をすることができた。
「前にニュースで小学校の教員採用が増えているって話が出ているけれど知っていました?」
「私もそれを見た。だったら進路変更するって。」
「入社早々、転職の話ですか?」
永野と教員志望の中野さんの会話に割って入って来たのは同期の小林さんだった。小林さんは同期の中ではマドンナのような存在で誰とも分け隔てなく話をし、明るく振る舞うので同期からも受けが良かった。初任者研修が終わりに近付くとバーベキューやフットサル、旅行の企画まで勝手出て結束を強めようと働きかけてくれた。小林さんが皆で頑張ろうと音頭をとっている中で離反しようとする動きをしようものなら見過ごせないのではと永野は思った。
「転職しようとしているのではなくて、入社前にあった選択肢で想像を広げてみただけですよ。」
永野がそう答えると、中野さんが、
「そうなの。現実、今すぐ進路変更するのは不可能で、腰を据えて働かないとね。」
と間髪いれずに答えた。結局、中野さんがこの先の話の展開を読み、永野に口裏を合わせることで解決を図ろうとした。
「初任研が終わると皆、配属先がバラバラになっていくでしょ。一緒の時期に入社したのも何かの縁だから大切にしないとね。」
おそらく小林さんが学生生活を過ごした環境が影響しているのだろう。小林さんが同期の皆を連れていこうとする世界は眩しくて、永野がこれまで過ごした世界と余りにかけ離れていた。誰か一人が離反する動きを見せれば、すかさず永野も追随しただろう。でも一人目になるのは気が引けた。
しばらくすると小林さんは話に盛り上がっているグループの輪に加わった。
「永野、お前のことを呼んでいる人がいたよ。」
同期が声を掛けられたらしく知らせに来てくれた。
「まだ知り合いはいないはずなんだけどな?」
同期が教えてくれた場所に永野が行くと花見客がたくさん行き交っていた。それらしい人物が見つからず、辺りをきょろきょろと見回していると相手の方から声をかけてきた。
「永野君?」
永野が呼ばれた方を向くと白のスーツで身をまとい眼鏡を掛けた大柄な女性がニコニコしながら立っていた。
「はい。」
「来週からうちらの部署に配属でしょ。よろしくね。」
今度は先ほど声を掛けてきた方とは対照的に小柄でキャメルのブラウスにショートスカートの隣にいる女性が質問してきた。永野の好みのタイプだったのでまさか同僚になるとは思っておらず胸が高鳴った。
「もう決まっているんですね、知らなかったです。」
永野が答えると、
「うちの部長は今度、入ってくるのは次期幹部候補だって期待しているよ。」
それを聞いて果たして期待に応えることができるのか不安になった。もはや書く以前にコンピュータの知識が無さ過ぎた。

新人研修を終え、部署に配属されるとすぐに永野がコンピュータに疎いことが衆目の事実となった。だが、永野もその頃にはすでに虚勢を張ることも止め、仕事を覚えながらコンピュータに強くなるしかないと腹を括っていた。わからないことは上司や同僚に聞いて回った。最初の仕事は職場で使うために初期化されたパソコンを渡され、OSをインストールすることから始めた。フロッピーディスクを入れた上でCDROMを入れ画面上の案内に従って操作を選択していく。コンピュータの知識がないため、カタカナの用語が出ると戸惑ったり、案内表示が出てくる度に正しいボタンを選択したのかと恐る恐る操作した。果たして目の前のパソコンをこの先、使いこなせるのか不安が募っていった。
「うぁ、すごいな。OSが二つも入っている。こんなの初めて見た。」
永野が進捗を伝えに部長に見せると、どうやらインストールの操作を二回したようでフォルダ構成が複雑になってしまったらしい。結局、作業をし直してソフトウェアを組み込んだ。次にネットワークへの接続に入った。「プロパティ」や「プロトコル」といった普段、生活では聞かない用語が表示され、入力する数値も教えられて何とかメールソフトのOUTLOOKでメールを送受信できるようになった。
「部長、納入を指定された用紙が海外の規格で日本にないんですよ。どうしましょう?」
永野の背後で翻訳担当の川畑さんが部長に相談する声が聞こえた。
「用紙のサイズを調べてカットするしかないな。永野、お前、東急ハンズまで行って用紙を用意してこい。」
永野の仕事はこのような雑務をすることから始まった。

数日後、世の中、善人ばかりではないと永野はつくづく思い知らされる出来事があった。隣部屋の中山がある休みの日に部屋を訪ねて来て妙な動きをして部屋から出て行った。訝しく思った永野が吉野を部屋に呼んだ。吉野はすぐさま事情を察知して永野に話をしてくれた。
「中山がしようとしているのはイントラネットと言って仲間うちで行うネットワークを組み、この部屋のパソコンと隣の部屋とを繋げたんだ。話を聞いていると永野にはネットワークへの接続の選択権がない。繋がったまま見られ放題なんだよ。」
「中山もひどいことするよな、このLANケーブルを抜けばいいよ。」
「抜いてしまうとまた、様子を見に来るだろ。こっちはサポートは受けたいがプライバシーは晒したくない。向こうはこちらのコンピュータの知識が不足しているのを知って足元見ているんだ。中山の方に非があるのは明らかだから咎めることも出来るんだけれど、こっちはコンピュータについては教えてもらいたいんだよ。中山との関係がこじれると後々、不利益になる気がして無闇に抗議も出来ない。」
「許せないな、相手の弱味に漬け込む行為だ。俺が代わりに言ってやろうか?」
「止してくれよ。子供じゃあるまいし、この程度なら気付かぬ振りをしておくよ。」
「だったらパソコンを組み立てた意味ないよ。自分の部屋でもパソコンを操作してコンピュータのことを学ぼうとしていたじゃないか。」
「そうなのだけど、自分の部屋でパソコンを開くのは必要最低限にして、なるべく使わずに過ごすよ。」
「コンピュータを覚える環境からの後退だな。中山に気を使ってすでに不利益が発生しているよ。そんな監視されたネットワークから断絶しちゃいなよ?」
「そうなんだけど、そんなことをしたら誰からもサポートされずに孤立してしまうよ。」
「だったら俺がサポートしてやるよ。」
「本当!それは有難い。でも吉野さんは階が違うしな。中山の代わりに吉野さんの部屋から廊下づたいにケーブルを部屋に引き込むと大変な作業になるだろう。あと、中山も自分のケーブルが切られて吉野さんのに付け替えられていたら露骨過ぎて腹が立つだろうよ。」
「とにかく中山には気を使うな。接続はもっと簡単に済ます方法を考えてみる。今、部屋に戻って設定してみるから、パソコンを起動させて待っててくれる。」
「分かった。」
「永野はOUTLOOKが入っていたよね。」
「うん。@の前にローマ字でa・naganoで送ってくれれば届くよ。」
「分かった。今からファイルを送るから、しばらくしたら送られているか確認して開けてみてくれる?」
「了解。」
「じゃ、後でな。」
そう言って吉野は部屋のドアを開けて出ていった。


「永野、取材に行くぞ。付いて来い。」

マニュアル制作を依頼してきたメーカーに取材に行くので付いて来るように松澤部長から指示が出た。自社で制作したソフトウェアを国内向けと海外向けに販売するため、マニュアルを依頼してきたそうだ。今回、出向くのはプログラマーから仕様やその製品の特色を聞き取る仕事だった。相手先の会社がある新横浜駅に向かう電車の中で部長と二人になったので永野は日頃、聞きたいことを質問してみた。
「研修でプログラミング言語がいくつもあるのを聞きました。部長は詳しいのですか?」
「分からんよ。」
「分からなくても何とかなるんですね。」
「知りたいことがあったら、会社で詳しい人間に聞くこともある。」
「すべてを知らなくても何とかなるもんですね。」

永野はパソコンの操作ですら覚束ないのにこれからさらに覚え始めなければならない領域があるのかと途方に暮れていた。そんな折り、上司の松澤部長から全てを知らなくても良いという話を聞けてほっとした。依頼を受けたオフィスビルにたどり着き指定された階に行くと相手先の会社のフロアだった。受付で訪問目的を伝えると中から二人、スーツ姿に長い髪を茶髪に染めた大柄な男と私服に眼鏡を掛けたひょろっと細身の男が現れた。
「どうぞ中へ。」
と言われて通されたのは小会議室のような部屋だった。ホワイトボード、手前を長テーブルとパイプ椅子が並べてあった。部長は一番前の座席に座り、永野は部長の席の後ろに座った。すぐに茶髪の男が話し始めた。
「わが社は社員全員が技術職の集団で開発には自信があるのですが、文才には引け目があって誰もマニュアルを書きたがらない。そこで今回、御社にマニュアル作成を依頼しました。」
茶髪の男は真田という名前だと後で分かった。
「我々の商売はそういったニーズにお応えすることで成り立っております。」
松澤部長はすぐさま返答した。その後、真田は製品の説明を始めた。
「この製品はソフトウェア開発を支援する環境をお客様に提供します。プログラミング言語はC++です。」
前を座っていた部長が突然机の下で不自然に手を動かし始めた。永野が後ろから覗くと、何やら本を開いているのが見えた。よくよく見てみるとC++とタイトルに書かれていた。説明内容を理解するためのあんちょこを開いているのが分かった。本当にコンピュータについての知識が十分でなくとも取扱説明書が書けるんだと感心してしまった。

小林さんが企画した旅行会があった。山中湖に近い民宿に一泊二日し翌日、出勤する慌ただしい強行日程だった。同期の参加者は十四名集まった。うち四人がバイクで参加し、残りの十名が三台のレンタカーに乗車した。宿周辺までたどり着くと、チェックインまで自由行動が言い渡された。ずいぶん緩いスケジュールだなと永野は思った。いったいこの後、何するのかと思ったら、助手席に座っていた小林さんが足元からプラスチックバットとゴムボールを持ち出して野球しようと言い出した。反対を唱える者は現れず皆ですることになった。三台の車で湖畔の道路を走らせ、やがて整備された広場に着いた。体を動かすのは久しぶりで永野がボールを投げるととんでもない所に飛び、同時に肩に痛みが走った。運動せずに過ごした体はすっかりなまっていた。運動不足を起こす生活にやがてなることを見越しフィットネスクラブで体を動かす同期はたくさんいた。そのうち、通うのが遠ざかり退会した同期もたくさんいた。永野はフィットネスクラブに入るくらいならせっかくの休日を外で思い切り体を動かして過ごしたいと考えていた。そんなことを思った時期に、会社の野球チームの募集があるのを知った。思い切って入部し休日の気分転換をするのも良いと思った。
「永野、ボールが飛んだぞ。」
味方から声が掛かった。慌てて前に注意を向けると向かってくる打球はぐんぐんと高度を上げて永野の頭上を超えていった。後方に転がっていく打球を永野は後から追いかけた。打球の先に小林さんがいた。野球を提案した張本人なのだが参加することなく、我々が遊びに興じているのを見て楽しんでいるのだ。同期で休日を楽しく過ごす風景を観賞しているようだった。転がるボールを小林さんがキャッチし、投げ返してくれた。永野がジャンプしても届く球ではなかった。
「ははぁ、ごめーん。」
笑いながら小林さんが言った。永野も調子を合わすように笑って応えた。

永野は松澤部長直属になった。入社志望も書くのが好きというだけで松澤部長の独断で採用された。永野の力をコンピュータ会社でどのように活かせるかは松澤部長の腕にかかっていた。終業時刻が過ぎ、保育園に子供を預けていた同僚が足早に退勤し、緊張が緩む時間帯になっていた。パソコンモニターから一通の社内メールが届いたことを知らせる着信音が鳴った。中身はアメリカ支社を立ち上げる通知と社内で配属希望を募集する知らせだった。
「松澤部長、うちの会社、アメリカに支社を出すんですか?」
永野は目にとまった記事の内容を部長に尋ねた。
「そうだよ。異動希望者も募集している。若干名だけどな。」
「応募してくる人、いるんですかね?」
「今年採用のお前の同期に一人、熱心な新人がいるらしいぞ。」
「誰ですか?」
「吉野とかいったな。今の配属先ではコンピュータに詳しくてスーパーSEだと噂になっている。永野は知り合いか?」
「はい。寮も同じで、よく教えてもらっています。」
「今のうちによく聞いておくんだぞ。できる連中はすぐ引き抜かれていなくなるからな。」
救世主も長くはいてくれないもんだなと思い、この先、待ち受けている自分の立場を考えると永野は気が重くなった。
「永野、腹減ってないか? 飯食いに行くけれど一緒に行くか?」
松澤部長から食事に誘われ、会社のすぐ斜向かいの蕎麦屋に入った。夕食には少し早い時間帯だったが店内はすでに客で賑わっていた。しばらくして店員の案内でテーブル席に着いた。
「ここは海老天蕎麦が人気だぞ。」
そう松澤部長が言ったものを注文した。後から聞けば知る人ぞ知る名店らしい。
「永野、蕎麦を食うとな、頭が冴えるんだぞ。知ってるか?」
「そうなんですか?」
「蕎麦出汁の鰹節のエキスが日本人の脳にリラックス効果を与えるんだ。」
松澤部長からそう言われた。さほど時間を待たずに天蕎麦が出てきた。麺が白く、イメージしたものと違っていた。麺にはコシがあってツルッとしたのど越しも最高だった。上に乗った海老天も衣がサクッとして美味しかった。
「永野、休みの日にファミレスに家族と車で乗り付け、食事しているサラリーマンをお前、どう思う?」
「普通です。」
「普通って言うけど、自家用の車でファミレスに乗り付け、さらに奥さんがいて、子供がいるんだぞ。お前、できるか?」
松澤部長から言われてみると、今の永野には車を買うお金もなければ、相手を見付け、子供をもうけて家庭を築くなど遥か先の話だった。今は仕事を安定させる方が最優先だった。
「出来ません。」
「普通って言ったけれどスーパーマンみたいだろう。」
「言われてみると本当、そうですね。」
永野は深く頷きながら答えた。
「永野も頑張らないといけないな。」
「はい。」
そう永野は答えた後、ふと松澤部長はどうしてマニュアルを書く仕事についたのか尋ねてみようと思った。
「松澤さんはどうしてマニュアルを書く仕事に就こうとしたんですか?」
今なら聞けると会話の雰囲気で分かった気がした。永野が判断したとおり、松澤は話を始めた。
「俺かぁ、この仕事を始める前はエロマンガ家のアシスタントしていたんだ。絵がうまいんだぞ。ある時、作家の代わりに原稿を届けに行くと向こうから『先生、どうぞこちらへ』と招き入れてくれてな、こっちも悪い気がしないから『おうっ、すまんな』とか答えちゃってな。」
松澤は昔の話を気分良くし始めた。
「上手くいってたのにどうしてその仕事を続けなかったんですか?」
永野が気になって尋ねると、
「その頃、すでに家庭が出来ていてな、子供が生まれたんだ。親になってふと我が身を振り返った時に、親父の仕事がエロマンガ家だなんて子供に示しが付かないだろう。だから辞めて仕事探した。」
「わからないでもないですが、大変だったでしょう。」
すると松澤は、
「今のお前よりも大変だぞ。子供はいるし、マニュアル作成の専門学校に通いながら働いたぞ。」
「家庭ができてから専門学校は確かに大変ですね。」
「この仕事に就いた後、ある時、電車に乗ってたら、目の前に座っていた若い男が俺の書いたマニュアルを読んでいてな、あの時は嬉しかった。」
「松澤さんが書いたマニュアルを読んでいる人に会ったんですね。すごい偶然ですね。」
「俺はあの光景を見た時、『マニュアルを書いていこう』と思った。俺が書いたもので読んだ人が残業時間を減らして早く家に帰れるなら本望だと思った。」
「自分が作ったマニュアルが残業時間を減らすんですか?」
「そうだろ、読んで操作できるようになったなら、早く帰れるだろ。」
「確かに、そのとおりですね。」
永野は松澤部長の遍歴を聞いてなるほどと納得した。
「しかしこの蕎麦、本当にうまいですね。」
「そうだろ。汁まで飲み干せるぞ。」
永野は勧められるままにどんぶりを空にした。夕食に済ますならまだ物足りなかったがこの後、職場に戻って仕事を再開するので追加注文はしなかった。生ビールを飲みたかったなと部長はこぼしていたが二人で席を立った。二人で職場に戻る途中、松澤部長がぼそっと呟いた。
「この仕事はオンオフが大事だぞ。休みは仕事以外のことを考えろ。」
「はい。仕事以外のことも考えます。」
永野は自分の席でまたパソコンモニターに向かって仕事を始めた。蕎麦を食べたので頭が冴えるかと期待したが効果が現れた様子が見られない。ふと、部長はさぞかしバリバリと仕事を進めているのかと視線を向けるとモニターの後ろに隠れるように深めに座り、微動だにしていなかった。モニターを凝視しているのかと、相手の顔が見える位置に立つと、目を深く閉じ頭をわずかに傾げた顔が見えた。すやすや寝息も漏れてきた。

「ネットワークには大きく二つあって、ひとつはクライアントサーバ方式。これはインターネットで検索して出てくるサイトが皆その一種になる。もうひとつがP2P(ピアツーピア)方式でコンピュータ同士を直接繋げるネットワークなんだ。」
「用途がどう違うの?」
「クライアントサーバは一つのサーバを経由してデータのやり取りをするから管理がしやすい。その反面、実はサーバーの運営者からやり取りが丸見えでプライバシーがだだ漏れになる。」
「そうなんだ、知りたい情報を探せて便利でいいなと単純に思っていたよ。ネットサーフィンなんかをしょっちゅうしているよ。」
「実はこちらが覗いているようで裏では覗かれているんだよね。」
「もうひとつのピアなんとかはどうなの?」
「P2Pは相手との直接のやり取りができる。第三者を介さないからやり取りを覗かれることはない。」
「じゃあ、そっちの方が良いね。」
「そうでもない。顔も会わせたことのない相手とどんなやり取りが考えられる? そうだな、例えば音楽好きがお互いのお気に入りの楽曲を提供し合ったり、決定的瞬間の画像を交換し合ったりできる。やり取りする同士がウィンウィンでなければ継続もしなければ、ネットワークも拡がらない。」
「ネットワークの中での同好の集まりだと成り立つんだね。」
「でも同じ趣味だけだとネットワークが拡がっていかないんだ。」
「どうすればいろんな人が集まるネットワークになるんだろう。」
「やっぱり見知らぬ者同士でも何らかの取引ができるのが大切だと思う。P2Pだと中間マージンが取られずお互いウィンウィンの関係でいられる。品を変え相手を変えてユーザーが主体的に活動を始められれば、ネットワークが拡がっていく。取引が安全にしかも手軽に決済できる仕組みであればマーケットとして魅力的だろ。その実現のために欠かせない技術がデータの暗号化で、その中心の役割をするのがデジタル貨幣だと俺は思っている。」
「デジタル貨幣?」
「現在のところ、支払いは口座振り込みになっているがそれだとプライバシーが守られない。顔も知らない者同士が必要最低限の売買取引をしネットワークに繋がる全ての人間にとってフェアが保たれる。それを実現するのがデジタル貨幣なんだ。」
「貨幣となると国に応援を申し出るの?」
「まさか。どんなに丁寧に説明したとしても相手にしてもらえないよ。」
「貨幣の仕組みを産み出すための莫大な資金が必要なのでは?」
「そうでもない。必要なのは暗号化を使った技術のみ。」
「暗号技術がお金を生み出すの?」
「それとは違う。暗号技術がデジタル貨幣を運用する仕組みを支えるんだ。」
「貨幣の仕組みを支える? ますます分からなくなってきたよ。」
「永野にはデジタル貨幣を完成させた後にネットワークに参加させるよ。」
「そうだね。手元のコンピュータでさえ、手に負えないのだから話についていけないよ。」

「今度のマニュアルは書式担当が高畑さん、高畑さんには第一章から三章まで執筆してもらう。四章は永野、お前がやれ。五章から十三章は竹原さん。」
永野は担当を与えてもらって嬉しかった。さらに竹原さんと一緒にする仕事だった。迷惑を掛けないように仕事をしていきたかった。早速、高畑さんが指定したファイルを開くと見出し、段落番号、本文といったパーツに指定されたフォント、サイズ、インデントが設定されていた。すでに高畑さんが作業に取り掛かっている一章を開いてみるとそこには文字や画像がバランス良く配置されたマニュアルに仕上がっていた。また、今回、依頼された製品のアプリケーションを開いてみた。真っ黒な背景色の作業スペースがウィンドウの大部分を占めており、上部には幾つかのタブと操作ボタンが並んでいた。試しに適当なボタンを押してみるとエラーの警告文字が表示された。製品は開発途中でデモ機の段階のものが提供されており、エラー表示で先に進めなかった箇所が数多くあった。エラーになる機能は開発者と直接、やり取りをし、聞き出して執筆を進めるとのことだった。永野はまずは、自分の担当のところを高畑さんの執筆済みの原稿を参考にしながら進めていこうと思った。
「チョコ、食べる?」
隣の席の関根さんがたけのこの里の菓子箱を永野の前に差し出してきた。関根さんは花見の時に竹原さんと一緒に挨拶した人だ。
「一個いただきます。子供の頃、よく食べました。」
「私はたけのこの里の方が好きなんだけど、永野君はどっち?」
「私もたけのこの里です。きのこの山はチョコの塊があるのはいいんですが、ビスケット生地の部分が乾いていて苦手です。」
「私も同じ。たけのこの里はしっとりした生地に仕上がっているよね。」
そう話すと関根さんは再び画面に向かって作業を始めた。

松澤部長が話していた「仕事のオンオフ」は永野の休日の過ごし方を考えるきっかけになった。週末、部屋で過ごしていると隣の部屋から時々、笑い声が聞こえてきた。壁を隔てて聞こえてくる声から数名の同期が遊びに来てゲームをして過ごしていることが分かった。中山とはケーブルを外して以来、疎遠になっていた。中山もコードを抜かれた時点で関係断絶と受け止めたようだった。コードを抜かれた理由を尋ねることなく、すぐに回収してしまった。廊下で会ってもよそよそしい態度をとるようになった。一方、吉野は永野の部屋に遊びに来るし、中山の部屋にも行く全方位外交の立場を堅持していた。どちらかに肩入れしようとする魂胆はなく、根が明るく楽しく過ごしたいのだろう。永野は今の自分の境遇を振り返ると果たしてこの先、明るい未来を切り開けるのか不安になった。現状は思い描いていた生活とはほど遠かった。華の金曜日に職場を出ると、根岸線に乗車し桜木町駅で下り、ランドマークタワーの書店で過ごす時間は一人でも十分楽しめたが、当てもなくみなとみらいをウィンドウショッピングして過ごす時間は満たされたものではなかった。会社帰りに寮まで一時間かけて歩いて帰り、気分転換することもあった。自分が本当にこの仕事で続けていけるのかわからず、さりとて成長している実感も変化もない。何か始めないといけないと思った。

「本当に野球をやっていたの?」
永野がまともにキャッチボールができていなかったので野球部の相澤先輩から突っ込みが入ってしまった。
「すみません。久しぶりにボールを投げたんで肩が痛くて思ったところに投げられないです。」
「まぁ、うちは野球がしたい会社の連中が集まった同好会だから、参加はウェルカムだぞ。ただし、スタメンは保証できない。」
「大丈夫です。休みの日に体を動かせればいいんで。」
始めてみると規律も緩く、皆、伸び伸びと活動していた。軟式野球で少年野球の経験しかない永野でも十分に練習に参加できた。メンバーには同じ寮の先輩がいたし、転職して今では生命保険の会社に勤めている先輩もいた。生命保険の先輩には何か保険商品の勧誘を受けた。営業の仕事が一件、増えるのでぜひ協力してくれと頼まれ、仕事の休憩時間に話を聞いたが加入しなかった。相手も無理に勧めてはこなかった。永野は新入社員の中で唯一、野球部に入部したため、ルーキーとして迎えられ可愛がられた。試合の時には寮の近くで乗車させてもらい、試合では代打で出場させてもらえた。また、試合の後には近くのファミレスで反省会が行われ、ビールを飲みながら野球談義をした。
「夏の合宿の準備は進んでいるのか?」
「宿はとれたよ。あとはグランドを押さえなくちゃいけない。これからやるよ。」
「合宿があるんですか?」
永野がようやく話に入れる話題になったので質問してみた。
「毎年、秋に合宿するんだよ。今年は水戸だな。」
「水戸ですかぁ。昨年に引き続き、同じ所なんだな。」
「あそこは良かっただろ。」
「あぁ、今年は羽目を外し過ぎるなよ。」
「ははははぁ。」
その日の反省会で一番盛り上がった話題だった。運転手の先輩も皆と同じ量のお酒を飲むので帰りの車では眠い眠いと運転して冷や冷やした。ワイワイした雰囲気を楽しむには十分だった。休み中に部屋で一人で過ごすよりもあっという間に一日が過ぎ、何より楽しかった。この後は部屋に戻って身体を休めよう。明日からまた一週間が始まる。

この日は竹原さんと一緒に例のマニュアル依頼のあった会社に最新のデモ機を受け取りに行くことになっていた。
「永野、お前、場所は分かっているから大丈夫だろうな?」
「新横浜駅に降りれば行き方を思い出すはずです。」
「そんな返事だと任せられないぞ。頼むよ、今回は受け取りだけしてくればいいからな。一緒に竹原さんも行くからな。道に迷っていると蹴飛ばされるぞ。」
「一度歩いたので行けるはずです。改札出口が違うと迷うかもしれません。電車から降りたら前に通った道を探します。それより、竹原さんは蹴飛ばしたりするのでしょうか?」
「ああ見えて、彼女、気性が荒いんだぞ。」

竹原さんと同じ部署に配属されてからしばらく経つが最初の印象とは実際はだいぶ違った。まず驚いたのが、彼女はタバコを吸うのだ。社内のフロアには喫煙スペースが設けられており、ガラス越しにタバコを吸っている彼女の姿を時々、見かけることがあった。仕事の合間の小休憩なのだろう。永野はタバコを吸わないので喫煙スペースに行くことはなかったが、仕事で息抜きできるのは羨ましくもあった。永野には地下一階の自販機に行くかトイレに行くしかなかった。
「行く前に竹原さんとよく打ち合わせをしておけよ。」

しばらくすると竹原さんが喫煙スペースから戻ってきた。永野は早速、席を立ち、竹原さんがいる机に向かった。
「明日、ご一緒させていただきます。つきましては明日の何時に出ますか?」
永野が話を振ると、珍しく永野が話しかけてきたので目を丸くして驚く素振りをした。これまでも何度か同じ仕草をしたのを見てきたがいつ見てもかわいらしかった。
「場所が分からないから案内してもらえますか?」
「もちろんです。ちょうど部長からその話を言われて、新横浜の駅を降りておろおろしていたら竹原さんから蹴飛ばされるかもしれないと脅かされてびびっています。」
「部長、そんなはずないじゃないですかぁ。」
竹原さんからそう声を掛けられた部長の方を見ると、おうっと気のない返事をしてパソコンモニターを見ながらキーボードを打ち続けていた。

翌日、昼食を済ますと竹原さんと一緒に出張に出ることになった。永野はいったい何の話をすれば良いのか迷った。二人で歩いているのに無言もさすがにまずいと永野は思った。そこで前から聞きたいと思っていたマニュアルの仕事に入った経緯を聞こうと考えた。
「竹原さんはコンピュータに詳しいのですか?」
「私、全然。最初は事務で仕事を始めたんだけれど、松澤部長からマニュアルを書いてみないかと言われてこの仕事を始めたんだよね。」
「松澤さんから声が掛かったんですか?」
「そうなの。文章を書くのも好きだったから誘いに乗っても悪くないなと思ってね。」
「へぇ、そうなんですね? 私も書く仕事がしたいと思ってこの仕事を志望して来たんですがコンピュータが分からない。コンピュータ会社に入ったのにコンピュータが苦手なんです。」
「そうなんだ。」
顔を合わせて会話していると受け答えの途中、竹原さんの顔の表情がコロコロ変わる。ひときわ内面が表情に出やすいたちなのか、はたまた相手から可愛く見られようとしているのか話している方が落ち着かなくなった。竹原さんと二人きりの会話は気持ちが高ぶるものだったが、おそらく永野が直面しているコンピュータとこれからどのように向き合えばよいかの答えを与えてはくれないだろう。そんな気無しの会話をだらだらと続け横浜駅から横浜線に乗車し新横浜へと向かって行った。

途中駅で多くの乗客が乗り込んできた。竹原さんや永野の周りは瞬く間に人で埋め尽くされ始めた。乗車の波はそれでも止まず吊革を掴んだまま姿勢を崩されるほど車内は溢れ返った。若いサラリーマンの男二人が人の波に身を任せて竹原さんの後方に押し出されるように近付いてきた。永野はとっさの判断で竹原さんと近付く男二人の間に身体を滑り込ませ、背中で人の波を受け止めるような位置に立った。そのため、胸元辺りに空いた空間に竹原さんがすっぽり入り込む形になった。なおも無理に乗車する人の波に永野の背中はぐいぐい押され続けていたが竹原さんには触れないようにこらえ続けた。
「混んできましたね。大丈夫ですか?」
永野が声を掛けると竹原さんはうつ向いたまま、
「何とか。」
と答えてそのまま黙り混んだ。永野が背中で防波堤のように人波を受け止めていたので両脇の空いたスペースに人が押し出され、ようやく人の移動はおさまった。吊革に掴まって何とか立ち姿勢を保持した状態だったが、無言でじっと辛抱するしかなかった。目の前の竹原さんも動けず、じっとしていた。

「ずいぶん混んでいましたね。ここから十分くらい歩きます。」
電車が新横浜駅に到着すると永野が道案内するように二、三歩前に立ち、歩き出した。前に通った改札出口をすぐに見付け出し、数日前に部長と歩いた通りをなぞるように歩いた。オフィスビルのエレベーターに乗り込み、受付があるフロアに降りた。案内表示のとおり、内線を入れ、到着したことを告げた。すぐに社員が現れ、前回案内された同じ会議室に通され空いている席に座った。竹原さんはカバンの中からメモ帳とペンを取り出すとページをめくり、何かを書き込んでいた。その後、真田ともう一人社員が現れた。
「お待たせいたしました。お越しいただきありがとうございます。こちらがご用意していたデモ機のデータです。」
真田から小包みを受け取ると永野の目的は果たしたことになる。
「どうもありがとうございます。」

さて、何を話そうかと考えていると、竹原さんが
「はじめまして、竹原亜紀と申します。今回、私も執筆を担当することになりました。よろしくお願いいたします。」
「こちらこそ、申し遅れました、私はプロジェクトリーダーの真田と申します。」
カジュアルな着こなしの竹原さんは真田にインパクトを与えたようでその後も竹原さんをちらちら見ている様子が見られた。そんな真田の視線を感じているのか定かではなかったが竹原さんはお構いなしに前の長机に身を投げ出すような格好で立ち上がり、
「事前にメールでお伝えした製品についての質問を教えていただけるのでしょうか?」
永野は竹原さんが質問事項をまとめ、今回の出張のついでに取材しようとしていたことを知り驚いた。
「メールでいただいた操作に関する内容でしたね。この後、デモ機を動かしながら説明できますが受けていきますか?」
すかさず真田が応えた。
「ぜひ、お願いしたいです。」
そう竹原さんが答えた後に、その場のやり取りに立ち尽くしている永野の方を向き、
「先に戻っておいて。」
と言って、さよならを伝える手振りをしてきた。
「わかりました。私はデモ機を持って一度、会社に戻ります。竹原さんは戻られますか?」
と永野が気遣って尋ねると
「この後、どれくらいかかるか分からないから終わり次第、会社に連絡する。」
と竹原さんが自分に構わなくて大丈夫だと返事をしてきたので永野は、
「竹原さんが取材のため、残られたと伝えます。」
と言ってその場を後にした。


「永野、プラットホームって知っているか?」
吉野からそう言われ、プラットホーム? 電車の駅が永野の頭に浮かんだ。
「今月からIBMが無料配布を始めたソフト開発支援アプリケーションをインストールすれば、Javaが無料で使えるぞ。」
「Javaは職場で使っている人がけっこういたな。初任者研修の『オブジェクト指向』の話で紹介されていた。」
「確かに話していたな。アプリケーションを機能ごとに開発すれば仕事の効率化が図られて残業も減るって話していたな。」
吉野は初任者研修はすでに知っていることばっかりだと終わった後に周りに吹聴していたが、話の内容はよく聴いていた。
「そのJavaをダウンロードしたらもっとコンピュータを知ることができるかもな。どうすれば手に入る?」
永野は何か現状を打開できるのではと期待し、吉野に聞いてみた。
「eclipseって検索バーに入力する。」
吉野に綴りを聞きながら永野は入力した。開いて見ると英語で書かれたホームページが現れた。この時点で永野はページを閉じたくなったが、吉野がサポートしてくれるのに任せることにした。
「Downloadって書かれたボタンを押してひたすらOKボタンを押せばダウンロードが開始する。」
しばらくすると画面がダウンロードの表示になった。
「ダウンロードが完了したらJavaが使えるようになる。」
「無料で使えるようにする発想が素晴らしいね。」

永野はパソコンを組み立てた時からソフトウェアは買わなければならないサービスだと思っていたので無償配布している発想に驚いていた。
「Javaの開発者を繋ぎ止めたいからだと思うけれどね。まぁ、このプラットホームで使えるのはJavaだけではない。C言語、C++等、幅広く使える環境なんだ。」
「初任者研修で初めてC言語でプログラミングしたのを思い出したよ。」
「はは、HELLOW WORLDだろ。入門だよ。」
「Javaでも出来るかな?」
「もちろん、試してみるか?」
「コンピュータを覚えるためにぜひ試したい。」
「まずプロジェクトを作成する。ファイルのダイナミックウェブプロジェクトを選択する。」
「プロジェクト名は何にしようか?」
「Atelierはどうかな?」
「アトリエ? 工房か? いいね。もの作りって感じがする。それ採用。」
「そうすると自動でたくさんのフォルダができるだろ。この開発支援ソフトだと複雑なフォルダ構成もサポートしてくれるんだ。」
吉野から言われるまま、永野は操作を進めた。
「ニュークリエイトのクラスを選択。ファイル名はハローワールド? あれぇ、選択ボタンが表示されない。」
「ハローワールドはダメなんだ。代わりにMainと入力してみて。」
「メイン。本当だ、ボタンが押せるようになった。」
「Javaはファイル名にできない文字列もあるんだ。詳しい説明は今はしないけどな。」
「言われるがままの入力なんで意味も分からずなのだけど、ファイルができたよ。」
「そしたら、ここからパブリック、スタティック、ボイド、メイン。ストリング、カッコカッコ、エーアール」
「ちょっと、今、入力する。」
「そしてそこにHELLO WORLDと入力する。」
「時々、蛍光色が入るのはちょっとして綴りの間違いなの?」
「そうなんだ。開発環境の支援機能が働いている。最初は目がチカチカして煩わしいけれど慣れてくれば気にならなくなるよ。」
「へぇ、ミスを指摘してくれるのは有難いね。」
永野はようやく入力を済ませ、吉野から教えられたように作成したmainのファイルを選択してrunボタンを押した。するとパソコンラックの内部から重低音の音が鳴り出ししばらく続いた。すると画面の右下のウィンドウに小さくHELLO WORLDが表示された。
「表示が出てきたね。何か嬉しい。」
「序の口だけれど大切な一歩だよ。頑張れよ。」
「ありがとう。まだまだサポートは必要だけれどいつか一人で扱えるようになりたい。」
「はは、その思いは大切だ。頑張れ。」
モニターにはHellow Worldの文字が表示され、パソコンからは稼働している重低音が鳴り響いていた。

東の空をほうきでひと掃きしたかのような閃光がきらめき、夜空に残像が残った。閃光は一度のみならず不規則に次の一手が放たれていく。こんなの初めてだな。映画「ムーラン・ルージュ」のワンシーンのようだった。永野は初めて見る神秘的な光景を目にし、この後、数時間後に仕事に行かなければならない現実に向き合うことに背け、丑三つ時に差し掛かった寮の周辺を歩くことにした。道幅が狭く両側に高くそそり立つ壁のように住宅が続くため、折角の夜空の天体ショーが見られずにいた。このまま先に進むより先ほど夜空が見えた寮の入口に引き返す方がよっぽど早い。そう思って引き返すことにした。寮が視界に入る辺りまで来ると、ガラス張りの扉の前に人影が見えた。誰だろう? こんな夜更けに起きて出てきたのは。永野が不思議に思って近付いてみると、立っていたのは吉野だった。
「どうしたんだ、こんな真夜中に。」
「わぁ。びっくりした、永野か。」
「驚かせて悪い。もしかしてしし座流星群か?」
「正解。今夜は極大日だとニュースで流れて気になってね。」
「私も。でも毎回、期待して起きて空を見ると雲が一面に掛かっていて、夜空を見ながら都会だと観測は厳しいなと早合点してすぐに布団に入ったりしている。」
「しかし、今回のはすごいな、驚いたよ。」
「もう今夜だけで三回も見たよ。」
「まだ続きそうだな。」

夜更けに寮からはわざわざ外に出てくる者は他にはおらず、男二人で星空を眺める格好になった。
「何か願い事をしてみた?」
永野は吉野を前に黙って空を見ていられなくなって沈黙を破る口火を切った。
「俺はアメリカ支社の募集に応募しようと思っているんだ。会社に認めてもらってぜひシリコンバレーに行ってみたい。」
「噂は前々から聞いていたよ。でもどうしてわざわざシリコンバレーなの?」
「インターネットの世界はシリコンバレーを中心に広がっている。世界中の人がワクワクするようなロジックでデジタル通貨を生み出し、世界に広めたいんだ。」
「スケールの大きい話だね。」
「永野は何をお願いした?」
「文学作品を作り出し、たくさんの人に読んでもらいたい。」
「お前、コンピュータ会社に勤務してそれはないよな。」
この日、二人で星に願いを込めたことが実現時期は別としても叶った意味では甲斐のある時間であった。
数日後、吉野は念願が叶いアメリカ支社へ異動が決まった。その後、これまで担当してきた仕事の引き継ぎで忙しく、顔を合わすことはなかった。

永野の仕事の方はさっぱりで、しばらくするとマニュアル作成の担当を外されてしまった。何度かデモ機を受け取りに相手先に通うことがあり、ある時、真田から執筆の進み具合を聞かれ、永野がしどろもどろになってしまった。真田からは大丈夫ですかね、今回、四百万円支払っているんですけどと言われてしまった。その後、松澤部長に伝わり、このまま永野に任せておくと危ないと感じた松澤部長が永野の配置を変えてしまった。永野はマニュアル執筆からすでに書式があるドキュメントを編集する仕事に変わった。配置変えの際に松澤部長から昔だったら券売機のマニュアル作りをして社内教育するところだけれど、うちも一部上場して社員をじっくり育てるような悠長なこと言ってられなくてなと言われてしまった。竹原さんと一緒に仕事することはなくなり、代わりに関根さんと一緒に仙海というベテランの元で仕事をすることになった。

仙海はドキュメントの編集という創造性がない地味な仕事を黙々とこなす職人肌のベテランだった。普段は寡黙だが、永野が仕事でミスすると声を荒げて叱った。送ったメールを見ていない、編集で迷った時に相談せずに作業を進めた等、叱りとばされた。ある時、添削した箇所を直したファイルを誤って上書きせずに閉じてしまった。朱書きした方の用紙もシュレッダーしてどこをどう直せば良いか分からなくなった。仙海はさすがに音を上げたようで一緒に仕事しないと言って早退してしまった。永野は反省こそしたが、そんなことで仕事を放棄したとしてもこちらが責任をとれるものでもなく、仙海はこの後、どうするつもりなのか疑問に感じたが、翌日になると昼過ぎ現れ、気を付けなよと仙海自身が折れてやったような言い方をしてきた。そしてその後、普段通り仕事を始めた。永野がミスをすると叱られることがその後も続いた。

晩秋の時期に、週末を利用して野球の合宿が開催された。水戸市内の河川敷のグランドでノックをすると後ろに転がったボールが草むらに入っていく。フィールドオブドリームだな半ば飽きれ気味に背丈ほどの草の間をかき分けボールを探した。練習が終わると宿に戻り、湯炊きした浴場に入る。わざわざこんな宿で過ごさなくてももっと良い場所あるのになと永野は思ったが食事の後、その謎が解けた。
「さぁ、酒も入ったことですし、これから街に繰り出しますか?」
相澤先輩が赤ら顔で皆に声を掛けた。皆、ニヤニヤ笑い顔になっていた。
「行きたくない奴は宿に残っていていいからな。」

残ると言い出す者は誰もおらず、タクシーを呼び出し、相乗りして歓楽街に繰り出した。
野球部の皆は永野が行くと言ったのに驚いた様子だった。永野は歓楽街に向かう途中、芥川龍之介が恋仲だった女性との縁談を果たせず失意の末に遊郭で童貞を捨てた話を思い出していた。これまで恋愛をせずに仕事に就くことを優勢させてきたが仕事に就いた後も新たに取り組まなければならない課題にぶつかり、さらに禁欲を強いられる強迫観念から逃れられずにいた。将来、生活を安定させる条件として禁欲がどんと居座り、道を外れたら転げ落ちていくのではないかという恐怖感が常に永野の頭にあった。いったいいつになったら生活が安定し家庭を築けるのかゴールが見えなかった。そもそも生活を安定させるための代償として禁欲があるという構図にも疑問があった。目標としていた仕事に就くという到達点に着いたことだし、ここらで功徳から外れてみるのも良いのではという気持ちが生まれてきた。月曜日からまた結果ばかりを求められる生活が始まるのだ。どうせろくなアウトプットができやしない。暗澹たる思いは募る一方だった。一緒に歩いていた部員が目星を付けた店に入り始めた。永野は前を行く寮の先輩と同じ店に入った。店の戸を閉じると手前が待合になっており、奥に受付があった。受付でお金を払うと呼ばれるまで待合席で待つように言われた。向かいに座っていた先輩はうつ向いて煙草を吸っていた。長椅子の傍らにはシガレットボックスがあった。待っている間の時間に自由に吸えるサービス品だった。永野は普段、吸わない煙草を一本取り、近くにあったライターで点火させた。煙を深く吸い込み、吐き出した。味は全くしなかった。一緒に入った先輩が先に呼ばれて店の奥に入って行った。隣りに座っている男は永野よりも後から入って来ているので次だと分かった。やがて、
「お次の人。」
と受付の男が呼んだ。永野が受付の前に立つと
「二階の大阪城という部屋に行ってください。」
と言われた。今、部屋は大阪城と言ったなぁ。間違いないよな。わざわざ引き返して受付に聞き返すのも嫌だったのでひとまず階段を上がった。増改築された建物なのか複雑な構造になっていて中二階のような踊り場があり、そこを起点に扇状に階段が広がり、二階へと続いていた。階段の途中まで上ると二階の様子が見えてきた。カラオケルームのような間仕切りの部屋が並び、一つだけ扉が空いていた。扉の入口に「大阪城」と手書きの札が掛かっていた。中へ入ると髪を後ろに束ね、真っ白のバスローブをまとった女が立っていた。細面の若い女だった。
「私は先に奥へ入ります。服を脱いだらそこの籠に入れて入って来てください。」
そう言うと女は御簾の奥へ消えた。永野は上着を脱ぎ、ズボンを下ろすと下腹部がパンパンに膨らんでいた。身に何も纏わず女が先に入った御簾の奥へと進むと女がシャワーベッドを片手に持って待っていた。もう一方の手に泡の付いた白のスポンジを持ち片膝付いていた。バスローブはすでに身にまとっていなかった。

「さぁ、お体を流しますね。」
女がそう言うと、一度永野から体を離しシャワーベッドを掴んだ。永野が体を起こした。背中には大きな目をした竜の彫り物がしてあるのが見えた。女は手際よくシャワーで永野の体を洗い流した。その後、真新しいバスタオルで永野の体を拭き取った。永野は服を着ると女からそばの椅子に腰を掛けるように促された。永野が座ると室内にあった小型の冷蔵庫から缶のスポーツドリンクを取り出し、栓を抜いた後に永野に飲むように進めてきた。
「いかがでしたか?」
女が尋ねてきた。永野は
「初めてだったので何がなんだか分かりませんでした。」
と伝えた。
「そうですか。」
と気のない返事をしてきた。その後、次の客が来るだろうし、長居はできないと部屋を出て一階の入口に向かった。受付で毎度ありがとうございますと気のない挨拶を背中に浴びながらそそくさと外に出た。

翌週、永野は普段と変わりなく出勤した。仙海らチームが担当している官庁システムの手引き書を作成していた。作業は送られてきたシステムの資料から必要な情報を見付け出し、手引き書に加えていく。どのページも代わり映えのないものでタイトルを上書きし、画像を貼り替える。時々、システムの操作のため画像が複数になったり、脚注を入れ、資料から探し出した文を入力することはあったがほとんどが同じ作業だった。さすがに永野にも操作に慣れ、単純作業で進めることができた。テンポよくキーボードとマウスを操作する音を鳴らす音が職場に響いた。おやっと松澤部長が様子を見に来ることがあったがその後の時間は単調に流れた。ある一定量の成果物を仙海に見せると誤字脱字にチェックが入り、もう少し慎重にするようにたしなめられた。気を取り直し、仙海からのチェック箇所を直し、再び続きの作業を始めた。没頭する時間が続いたため、トイレに向かうと途中の喫煙所のガラス越しに野球部の先輩と松澤部長とが談笑しているのが見えた。前を通る際、永野は会釈して通過した。ずいぶん時間が経ってから松澤部長が戻って来た。自分の席に着く前に職場を見渡した後、まずいなぁと呟いた後に席に着いた。しばらくすると松澤部長は仙海を呼び、奥の会議スペースに入っていった。その後、永野は呼ばれ、松澤部長から次のようなことを言われた。
「前に話した券売機のマニュアルを勉強のつもりで書いてみろ。ただし、期限は一ヶ月とする。それまでに本気でマニュアルを作ってみろ。出来によってその後、どうするか考える。あと、今の仕事は引き続きしながら作るんだぞ。」
松澤はいつになく硬い表情で永野に伝えた。仙海からは勉強のつもりで頑張れと言われた。ひと月と期限を言われ、永野は急いで取り掛からねばと気が急いてきて落ち着かなくなった。ひとまず担当の仕事に取り掛かり、残りの勤務時間をその作業に当てたが前ほど没頭することができなかった。

翌日は休日だったので、永野は最寄り駅に行き、券売機の前で取材を始めた。写真を撮っては一つ操作をし、また写真を撮る。マニュアルに使う写真を撮り貯めた。その後すぐに職場に行き、写真データを職場のパソコンに移した。早速、マニュアル作りを開始した。券売機を利用する人だったらまず何から始めるだろうか考えた。初めて使う人だったらタッチパネルを見て、切符か定期券か回数券か選択するだろう。選択した後は目的の商品を選び、金額が表示され、金額投入になる。多くは券売機を使ったことがあるので先に金額投入する場合がほとんどだろう。誰に向けての操作なのか考えた。説明は短くし、操作と画面遷移の違いにも気を付けた。完成を急がねばと焦る気持ちがこみ上げていた。
翌週、松澤部長から指示があって、画像の鮮明さ、構成において自分が一番だと思うものを作ること、作成ソフトもこれまで使用してきたものに縛られず野心をもって作るようにと言われた。

「おはよう。今日も仕事?」
土曜日の朝、寮で食事をとっていると吉野から声を掛けられた。アメリカ支社に異動が決ままり、引き継ぎで忙しく、寮でも顔を合わすことがない日が続いていた。
「そうなんだ。部長からの急にしごきがきつくなってね。休み返上して仕事してくるよ。」
永野がぼそっと口にした。
「体を壊すなよ。」
吉野が気の毒そうに伝えてきた。
「ありがとう。そっちは最近、忙しそうにしていたけれど一息付いたのか?」
「あぁ。今月末にいよいよアメリカに行く。今晩、飲みに行かないか?」

永野は券売機のマニュアル作りが気掛かりだったが、これまでいろいろ助けてくれた吉野と最後に話しておきたかった。
「ぜひ、飲もう。どこがいい?」
「食いというよりいろんな酒を飲みたい。どこか知ってる?」
「バーをはしご飲みしないか?」
「いいね。ぜひ。」
「雑誌で読んだカクテルを一度、飲みたいと思っていてね。」
「何という酒なの?」
「テスタロッサ。」
「なんだかフェラーリみたいな名前だな。」
「そうなんだ。カンパリベースのカクテルらしい。」
「どこで飲む?」
「馬車道はどう?」
「あそこかぁ。バーなら何軒かありそうだね。」
「よし、今晩、六時に馬車道で!」
永野は吉野への感謝と前途を祝して飲み歩きたかった。

「テスタロッサ? 知らないなぁ。」
一軒目のお店からお目当てのカクテルを注文したが知らないと返事され、二軒目、三軒目と飲み歩いたがどこのお店からも知らないと返事が返ってきた。カンパリベースでテスタロッサのイメージで作ってくれるが、それぞれのお店のマスターがイメージしたカクテルが出てきた。
「柑橘系のお酒に仕上げてみました。」
三軒目のマスターがチャレンジしたカクテルは口当たりが爽やかな飲みやすいお酒になっていた。
「永野、テスタロッサというカクテルはメジャーじゃないんだよ。」
だいぶ酔いが回って呂律が怪しくなってきた吉野が言った。
「どの店も同じ反応だからそうだろうね。」
お目当てのカクテルを提供できなくて気にしていたのかマスターが話に加わった。
「イタリアに買い付けに行くことがあるけれど現地でも聞かないな。」
マスターも仕事の途中だったがコップにお酒を入れ、一気にあおった。
「買い付けに行くんですか? 本格的ですね。」
吉野がマスターの話に食い付き始めた。
「現地でしか手に入らないものを見付けられた時はお宝を振り当てた気分だよ。」
マスターが楽しそうに話した。
「たとえば?」
永野が話に割って入ると、マスターは背後の酒瓶からお目当てのものを探し出しカウンターに置いた。
「このラム酒は無色透明なの。」
「本当だ。普通、ラム酒といえば琥珀色をイメージするけど透明だ。どんな味なんですか?」
吉野が聞くと、マスターは目の前のラム酒のキャップを緩めると小さなコップに注いで差し出した。吉野が一口、その後、永野が残りを飲み干した。
「味は同じかも?」
「原料が同じだからそうだろうね。でも色が付いていないからカクテルのアレンジが広がるんだ。」
「無色だから色付けはしやすく、でも味はラム酒。なるほどね。」
吉野が妙に納得していた。
「馬車道だと来店するお客さんが違うのですか?」
永野がマスターが質問にいろいろ答えてくれるので尋ねた。
「いいや、銀座に比べたら馬車道なんかたいしたことない。」
マスターのこの言葉には吉野が食い付いた。
「やっぱり銀座はそんなに違いますか?」
吉野がそう尋ねるとすかさずマスターが返答した。
「やっぱり本場だからね。キャバクラからお姉ちゃんを連れて芸能人がわんさかやって来る。」
「そうなんだぁ。本場は刺激がひときわ強目ですね。」
吉野の返しは妙な言い方だったが伝えたいことは分かった。そんな会話を続けているうちにこれ以上、飲めなくなり、話題も尽きたので店を出た。店先の大通りは車の往来がなくなり、静まり返っていた。時折、強い風が吹き付けた。酔いと眠気で永野はぼうっとなり、吉野と話をする元気も失せ、たまたま通りがかったタクシーに乗り込むと寮近くの国道一号線沿いでタクシーを下り、寮にたどり着いた。じゃあなと挨拶を済ませるとそれぞれ部屋に帰っていった。これが吉野と会った最後になった。

山下公園の打ち上げ花火は横浜のビルの間で反響し、その度に建物の僅かな揺れを感じさせた。昼間と違ってひっそりと静まり返った職場で永野は一人残って券売機のマニュアル作成をしていた。画面には画像編集ソフトのデモ用の画像が写し出されていた。
我々のオフィスでは日夜クリエイティブな開発が進めている
快適な操作 最高品質の解像度 まだ誰も見たことのない映像の実現
サンタ・バーバラの地から世界に向けて
背景の画面には夕暮れ時の砂浜が映し出されていた。シリコンバレー。常識にとらわれない技術開発の地。無駄のない論理で構築された世界。その高みを見上げることしかできない自分。もっと早くコンピュータに没頭していれば、今と違った生き方になったのかもと思うとやり直したくなる。けれどそんなことはできない。前に進むしかないと自分に言い聞かせた。

永野は松澤部長がいったい何を考えているのか分からなくなった。作成したマニュアルを見せるとページを一、二ページめくり、これじゃあ、駄目だと突き返した。駄目なら駄目でフィードバックがあれば直す方向性は見えるので頑張れるのだがそれすらない。永野のことを煙たがっているのではと疑った。一度、作業を中断し、別の仕事を始めたが、思考が券売機のマニュアル作りに向かおうとしているため、集中して作業ができずにいた。無為な時間を過ごしているとポケットの携帯電話に着信を伝える振動があった。メッセージを開くと「生きていますか? 今晩、飲みませんか?」大学の後輩からだった。永野は「これから? どこで飲む?」と返信した。すぐに返事が来た。永野はこれからそちらに向かうと伝え、終業時刻が来ると職場に帰る旨を伝え、職場を出た。松澤部長はずっとパソコンモニターを見入ったまま、おぅと返事をして来た。永野はこの後、どうマニュアルを良くするのか分からなかった。券売機の操作マニュアルは書店に存在しない。ワードの本はあるだろう。だがワードを使った作品紹介の本は見付けられなかった。分からなければ調べるという手段もなく、途方にくれるばかりだった。一時期、永野を救ってくれた吉野はもはや近くにいなかった。これまでまだ頑張れると自分を鼓舞して今の仕事にしがみついてきたが、そろそろ潮時かもとふと思った。だがよぎった思いをすぐに打ち消し、券売機のマニュアル作りを最後まで仕上げようと思った。

ひさしぶりの後輩たちとの飲み会だったので話が興じ、深夜に居酒屋を出た。品川駅で京浜東北線に乗車するとたまたま目の前の席が空いていて座ったのがその後の失態に繋がった。永野は酔っぱらうと眠ることが多いので寝ないように気を付けていた。念のため、携帯電話のアラームで最寄り駅の東戸塚に到着するであろう時刻にセットしてから目を閉じた。次の瞬間、ドアが開く音が聞こえたので東戸塚に到着したと思い、飛び起きてホームに降りた。辺りを見渡すと真っ暗で馴染みがない。いったいここはどこだ。電車に乗り込むべきか。とっさに判断できずにいると電車のドアが閉じられ、動き出して行ってしまった。ホームの駅表示を見ると新川崎と書かれていた。乗り過ごすことを警戒していたが、手前で降りていた。ホームアナウンスが入り、今、発車したのが最終電車だと分かった。やれやれ、しくじっだった、この後、どうするか。改札を出ると駅の周辺はビジネス街で高層のビルはあるが、ひっそり静まりかえり、夜通し過ごせる場所のカラオケ店やファミレス、ビジネスホテルは見当たらなかった。タクシーかぁ。無駄な出費を考えるとうんざりした。周辺の案内地図を見ると近くを国道一号線が走っていることが分かった。寮の近くまでタクシーを走らせてもらえばたどり着ける。駅前で終電を乗り過ごした客を相手にしているタクシーに乗ることができた。
「国道一号をまっすぐ行って権太坂を過ぎた辺りで下ろしてください。」
「国道一号線沿いですね。第三京浜の高速に乗りますか?」
「高速は乗らないでください。」
永野は運転手に行先を伝えるとシートに深くもたれかかった。酔いがまわるのが早くなっていた。連日、無茶な残業で券売機のマニュアル作りをしていた。進捗報告しても突き返され、達成感のないまま心身ともに疲弊していた。前はできた作業もミスが増えた。周囲が心配してメンタルクリニックを進めたので数日前に行ってみた。入社してからの状況、入社前に大学で文学に熱中したこと、卒論で二十世紀のイギリス文学で流行した「意識の流れ」の手法をまとめたことなどを話した。医師からは自信の喪失を指摘された。まず学生時代の仲間と会って話をする等、健康だった時の感覚を呼び起こすことで自信を回復すると良いとアドバイスをもらった。今晩の飲み会も昔を思い出せて楽しかった。でも昔に戻れるものでもない。先行きは不透明で回復の兆しは見えなかった。フロントガラス越しにヘッドライトに照らされている路面が見えた。

永野は気が付くとまだ車内にいた。車は変わらず走っていたが料金表示を目にすると慌てた。一万七千円と表示されていた。そんなに料金がかかるはずはない。深夜割り増しだとしても割高だった。高速を使えばさらに料金割り増しになる。おそらく永野が車内に寝ている間に運転手が高速を利用し、寮より先にある戸塚で下り遠回りをしたことが分かってきた。冷静に考えてみれば明らかだった。国道一号線を走ってはいたが東京方面を進んでいた。抗議した方が良いか永野は考えた。ただ、こちらは酔っぱらっているのでまともに扱ってもらえないだろう。事が大きくなって会社に伝わった場合、今の永野の職場の状況から考えても好転するはずがなかった。泣き寝入りするしかない。
「お客さん、まもなく権太坂ですがね。」
運転手にそう言われた。やれやれ、しらを切っていやがる、わるびれもせずに。
「先のコンビニの前で下ろしてください。」
「はい。料金は一万八千円です。支払いは?」
「現金で。」
結局、新幹線で片道なら大阪まで行ける料金よりも高くついた。人が困っている時に付け入る人間もいる。普段なら起こらないことが起きていた。悪循環を断ち切る潮時だった。


「訴えても構わないぞ。こっちだって言いたいことはある。」
松澤部長は永野が抗議する前から戦う姿勢が発言の節々から感じられた。永野は戦うつもり等、毛頭なかった。永野の券売機のマニュアルは素人が作る域を抜け出せず締め切りを迎えた。永野はすぐに松澤部長に退職することを願い出た。松澤部長は仙海を呼び、永野と三人で集まり、話をすることになった。
「仙海さん、永野が退職をするそうだ。」
「ああ、そうなんですか。」
仙海は最初、驚くような声色をしたが、すぐに感情を表に出さずに受け答えを始めた。
「仙海さんを呼んだのは、永野が抜けることになると今のうちに引き継ぐことはあるのか聞きたい。」
松澤部長は淡々と話を始めた。
「引き継ぐといっても私が永野の仕事の面倒を見てたんで。」
「そっか、そうだった。」
松澤部長はから笑いをした。そして永野を見据えると
「永野、お前はまだ年休あるよな。」
「使ったことがないので二十日あります。」
永野は退職するのに年休が何日残ろうと気にならなかった。
「明日から年休を全て使えば、夏のボーナスが支給されるようになる。退職金の代わりにそれを出すからもらっておけ。」
松澤部長からそう言われると、永野はこれまで会社に一切の働きも出来ずに迷惑をかけたのは自分の方だという気持ちが沸き起こった。パソコンを使ったことがないのにコンピュータ会社に入ったのがそもそもの間違いだった。仕事が出来ずに一年ばかり過ごしたがおかげが自分のパソコンを手に入れ、操作の仕方もある程度、身に付けることができた。失敗ばかりで信用を失い、ろくに仕事を任せられない立場になってしまっていたが、もし入社時に今ほどのスキルがあれば辞めずに済んだかもしれなかったとも思った。永野はお世話なりましたと言ってその場を退出しすぐに身の回りの整理に取り掛かった。引き出しの使わなくなった書類を整理し社外秘の資料はシュレッダーすることにした。書類を抱え、シュレッダーをしていた時だった。
「もう辞めちゃうの。」
そんな呟き声が聞こえ、声がした方を向くと竹原さんがいた。こちらを向いておらず、デスクの上のモニターを見ながら仕事をしていた。竹原さんと一緒に途中まで永野が担当したマニュアルは完成し、数日前に一セットが送られてきていた。永野はちらっと目にしたが、自分の手から離れたマニュアルには愛着が湧いてこなかった。確かに竹原さんが呟いたはずだが目も合わさずにいるのだし、気のせいだったのかもしれない。その後、仙海にお世話になった挨拶を済ませ、松澤部長のところに行った。松澤部長は皆の作業を一度止めさせ、永野が仕事を辞めることになったことを伝えた。永野も職場の皆にお世話になったことを伝え、すぐに会社を出た。寮に戻る電車で親にメールで退職したことと、明日、荷物をまとめて帰ると伝えた。翌朝、引っ越してきた時にそのまま、部屋に置いていた段ボールに荷物を詰め込み、梱包し終わった段ボールから廊下に出した。途中、中山が前を通り、どうかしたのか尋ねてきた。退職したことを伝えた。中山はえっ、そうなんだと驚きの声を上げた。少し上ずった声で震えているのが見えた。仕事を失うことは恐怖以外の何物でもないが、今の永野には怖れはなかった。何より今の状況を変えたかった。

いざ再起を図ろうとする気持ちはあったが、実家に戻ってから頭が働かず部屋で寝て過ごす日が続いた。部屋で過ごす時間が長くなり、部屋にある物を見てうんざりした。この先、使わないであろう物で溢れている気がした。眼鏡のフレームの専門雑誌、音楽雑誌のバックナンバー、文学の書籍類も永野のこれからの生活に役立つものなのか疑わしい。これら自分を磨くためのアイテムとして趣味を広げ、物の価値を知るために揃えたアイテムだった。しかし、社会に出た途端、一切求められなかった物、無用の産物にしか見えなかった。永野は仕事をしていくためのスキル以外は価値を見出だせず、極力、生活を簡素にしたいと思った。そこでこの先も使うであろう物を手元に残し、後は処分しようと考えた。中古で売れるものだけまとめてお店に持って行き、引き取ってもらえない物は捨ててしまおうと考えた。せっかくお金をかけて収集した物にも未練はなかった。

大方、身の回りの物が片付く頃になると次にどんな職に付くのかが急務になった。教員免許を生かして教職に就く選択肢はあったが一層、未開の分野に飛び込んでみる選択にも憧れがあった。そこでどんな仕事に就きたいか自分のこれまでの人生を振り返るとバイトで飲食店のホールスタッフをしていた時に板前さんから可愛がられ、お前、板前にならないかと誘われたことを思い出した。板前の仕事こそ未開の職種でやり甲斐があるのではと思えてきた。早速、以前、バイトをしていた恵比寿のお店を訪ねた。駅前から駒沢通りに沿いの商店街を歩いて行くとお店のあったビルが見えた。地下へと続く階段に近付くと見慣れない看板になっており、見ると店が変わっていた。縁で飛び込むのならその気になれたが、この際、縁がなかったと諦めが付いた。再び、他に何なら目指せるか考えた時、教師になってはどうかと思った。永野が持っている免許は中学高校だったが、小学校の採用が増えている。教育実習では中学校だったがやりがいをもてた。だが、仕事となると自分に適正があるのか自信がなかった。自分はどんな仕事に就けば良いのか分からないが、一度社会に出た身であるので一刻の猶予も無駄にしたくなかった。とにかく行動しなければと思った。ただ力強く一歩を踏み出すための後押しが欲しかった。そんな永野が考えた行動は次の二つだった。まず高校時代の担任だった先生に会い、、教師の道に進むのは良いのか聞いてみたかった。次に、沖縄に住む祖母に会いに行きたかった。永野が三歳頃に同居したことがあり、その後、沖縄に住まいを移した祖母がいた。あまりに遠かったので行けることはないだろうと思ったが、仕事探しをする今こそ会っておくべきだと思った。

永野が母校を訪れたのは卒業式してから七年が経っていた。受付で卒業生です、担任に会いに来ましたと伝えるとすぐに通してくれた。敷地に入ると古い校舎はすでになく、新しい綺麗な建物に変わっていた。以前は男子校だったが生徒が集まらない理由からなのか、共学になっており、女子高生の姿が見られた。永野が訪れた時は学校説明会で中学生とその保護者がたくさん来ていた。来場者を前に髭をたくわえ、気取った男が学校説明をしていた。男子しかいなかった時には下ネタ話ばかりをしていた教師だった。永野は近くにいた学校関係者に来校の目的を伝えるとしばらくして担任が現れた。名前を告げると思い出してくれて永野の近況を聞いてくれた。大学を卒業して就職したが辞め、再就職を目指していること、教員免許を生かして小学校の先生になろうか迷っていると伝えた。担任は永野の来校を温かく迎えてくれ、教師の仕事はやりがいがありおすすめすると話してくれた。永野は今の免許では小学校の教員にはなれないのでどうすればなれるか尋ねた。すると教員養成の大学に四年通って卒業までしなくても通信の大学に通えば免許を取ることができると教えてくれた。住まいが東京ならどの通信制の大学がおすすめなのかも教えてもらった。

永野が祖母と会うのは、二十年ぶりだった。永野の母親宛ての便りでその時々の近況は知らされていた。永野が小学一年生の時に読んだ手紙の内容は次のようなものだった。祖母の家の軒先に燕が巣作りしたこと、小学生の女の子が家の前を通り過ぎる度に巣の中のヒナのことが気になって、立ち止まっては祖母に話し掛けていくことが書かれていた。その頃、永野は手紙からまだ見ぬ祖母宅を想像したものだった。まさか自分が祖母宅に行くとは想像していなかった。祖母と一緒に暮らす永野の叔父にあたる哲哉さんが車に乗せて祖母宅まで案内をしてくれた。台風の接近で時折、音を立てて吹く強風と窓に打ち付ける雨、夕暮れ時の薄暗さとで永野は辺りの様子を掴めずにいた。建物の間から強烈な光が差し込み、さらに視界を遮った。
「何の光ですか?」
永野が哲哉さんに尋ねた。
「あれは菊の促成栽培だよ。夜間も明かりを照らし成長を速めているんだよ。」
哲哉さんが説明してくれた。サイズの揃った菊は高値で取引されるらしい。車は沖縄特有のコンクリートで覆われた平屋の家の前に止まった。
「着いたよ。ちょうど雨が弱まったから車を降りて建物の軒先まで行ってくれるかな。そしたら玄関まで行かずに庭先から上がり込んでいい。」

哲哉さんから促され、永野は車から下り、庭を小走りで通り、建物の軒先に着いた。ガラス戸越しから中を覗くとミラーカーテンが部屋の明かりで照らされ、中の様子が分からなかった。哲哉さんから言われたとおり、ガラス戸をスライドさせると部屋の中央に大きなリクライニングソファが部屋の広さに対して不釣り合いなほど大きくどんと置かれていた。ソファにはボサボサの真っ白頭でふくよかなお年寄りがいた。永野が急にガラス戸を開けたため、慌てて立ち上がった様子だった。誰だか分からず混乱していたので、永野の方から声を掛けた。
「おばあちゃん。敦だよ。佳子の息子。覚えている?」
すると祖母はようやく目の前にいるのが孫の永野だと認め、永野を見上げて笑顔で話し掛けてきた。
「びっくりしたぁ。窓が開いて男の人が入って来るんだから。心臓が止まるかと思ったよ。あっちゃんだよね。大きくなって。」
最初の印象とは打って変わって元気に話し掛けて来たので安心した。永野は同居していた頃にこの祖母に助けてもらったことをふと思い出した。

好奇心旺盛だった永野はよちよち歩きで父の部屋に入り込み、引き出しの中からカッターを見付けた。刃が仕舞われているカッターのノブを引き上げ、目一杯刃を出すと、刃に繋ぎ目があることに気付いた。その後、手で刃を掴み、手前に引いた。刃は簡単に折れた。もう一度、同じことをすると刃がまた折れた。楽しくなって刃を夢中で折り続けた。そのうち、手がベタベタするので自分の手を見ると真っ赤な血まみれになっていた。不思議と痛みはなかった。不思議そうに赤い血を見詰めていると父の部屋のドアが勢いよく開いた。
「あっちゃん、何してんの?」
祖母がそう言って勢いよく駆け寄って来たので何だか大変なことをしてしまった気がして泣きたくなった。その後、傷口にヒリヒリするオキシドールを塗られ、絆創膏で止血してもらった。
手当てをして痛い思いをした記憶は今でも覚えていた。あの時、祖母がいち早く気付いたおかげで軽傷ですんだが、誰か止めに入らなければ大きな傷を負っていたはずだった。永野にとっては祖母は恩人だった。永野は親しみを込めて祖母に再び話し掛けた。
「おばあちゃん、元気だった?」
おばあちゃんはにっこり微笑むと両腕で力こぶしを作って見せて言った。
「元気、元気。動かないから太っちゃったけど、あと十年は大丈夫だよ。その先は分からんけどな。」

祖母と再会した後、予約した名護のホテルまで哲哉さんが送ってくれた。明日、昼頃に迎えに来てくれると言っていた。哲哉さんの家族に会わせる段取りを取ってくれるそうだ。哲哉さんは前に奥さんと離婚していて、お子さん三人を永野に引き合わせるのにも段取りがいるらしい。眠る前に祖母との二十年ぶりの再会の瞬間を思い出し、喜びにひたっているといつしか眠りに入っていた。翌日、ホテルで軽い朝食を取り、哲哉さんが来るまで目の前に広がる海岸に出た。沖縄半島北部に位置する名護市は西の東シナ海からえぐられた形の湾になっている。えぐられた湾に砂浜が広がっている。一帯は公園になっていて野球場のある公園や大型の駐車場があった。プロ野球チームの日本ハムファイターズが春のキャンプに利用していると聞いた。永野が訪れたのは秋口だったため、閑散とし海の家も閉じていた。時折、パラパラと小降りの雨が降った。この時期でも海で泳げるそうだが海岸には誰の姿も見られなかった。海岸を歩いていると濡れ鼠になった子犬が力なく歩いていた。永野が砂浜で海を見ていると先ほどの子犬が足元辺りまで近付いていた。辺りを見回しても誰もいない。おそらく夏の間は海の家に来た客から可愛がられて餌など与えられていたのだろう。季節を過ぎると海の家は閉まり、誰からも引き取られず置き去りにされたのだろう。ふと連れて帰る選択肢がちらっと頭に浮かんだ。だが、旅行先から飛行機で連れ帰るのは到底、無理だと分かった。「頑張って生きろよ。私も頑張る。」相手に伝わるはずのない言葉を掛け、永野は海岸から離れた。子犬は力なく声を上げていたがやがて諦めてその場に止まった。


「敦さん、子供たちは三時頃に帰って来るからしばらく家で母と一緒にいて。」
哲哉さんからそう言われて祖母宅で待つことになった。祖母は昨日よりしっかりしていて永野によく話した。
「今じゃ、この辺りの土地を欲しがる人がたくさんいるが、どこも残ってないよ。私は独り身になってここに帰って来た時に近所の人がな、情けを掛けてくれてここの土地を安く譲ってくれたんだ。」
お便りでは決して書かれなかった下品な話が出てきたのは驚きだった。
「沖縄に暮らすのに憧れている人はたくさんいるからね。」
永野は祖母に話を合わせる返事をした。
「そうだぁ、裏にね、シークヮーサーの実がなっている木があるからね、行ってみる? 今朝、お隣さんに会って孫が会いに来た話をしたら、庭のシークヮーサーやらパパイアやら見せてあげてって。何なら幾つか取ってもいいって言ってくれたんだ。」
祖母に促され、車を停めている庭とは家を挟んで反対側に出た。隣りの家との境界辺りに背丈ほどのこんもり繁った木が一本あって緑のピンポン玉ほどの実が所々に実っていた。
「少し取ってごらんよ。」
祖母からそう言われて永野はすぐ届く緑の実をもぎ取った。
「一個食べてごらんよ。」
そう言われて永野は皮を剥き始めた。すだちの実のようだったがすぐに外皮が剥け、ミカンを小さくしたような房を一粒、指で摘まんで口に入れた。すぐに酸っぱい刺激が口に広がった。次々、摘まんで食べる味ではなかった。
「レモンほどは強烈じゃないけど、酸っぱい味だね。」
永野は中の種だけ口から出して飲み込んだ。
「ジュースにして売っているね。」
祖母は永野の渋い顔にニコニコしていた。
「あそこにパパイアもあるよ。」
祖母が指差す先にまだ青いパパイアの実が実っていた。ソフトボール大のラグビーボールのように楕円の形だった。永野が手に取るとずっしりとした重みがあった。まだ熟していない。食べられるのかと迷った。
「青いのはね、皮を剥いた後に千切りにして炒めればいいの。」
レジ袋に入れると袋がいっぱいになった。祖母宅から哲哉さんが歩いて来るのが見えた。
「お母さん、お隣さんにちゃんと断った? いくら良くしてくれるにしても、声かけなきゃ駄目だよ。」
哲哉さんが祖母に呆れた様子で話した。祖母はむきになって言い返した。
「そりゃあ、断ったさぁ。私だってそれぐらいわかってる。」
「それならいいんだけれど。敦さん、子供たちが学校から帰って来たから連れて来たよ。今からソーキ蕎麦を食べに行こうね。」
哲哉さんから呼ばれ、車に停めてある庭の方へ回った。車のそばには子供たちが三人いた。
「こちらが長女の陽菜、長男の空、次男の大地。ほら、挨拶して。」
子供たちが笑顔で挨拶をした。
「そしてこちらがパパのお姉さんの息子さんの敦さん。」
哲哉さんが紹介してくれるので永野も調子を合わせて挨拶をした。その後、すぐに哲哉さんの車に乗り込んだ。永野は助手席に座り込んだが後部座席の子供たちははしゃぎ出した。哲哉さんも何度か大人しくするように注意したが、運転に気をとられて静めるまでにはいかなかった。やれやれ、これが小学生かと永野も気が遠くなったがこの先、小学校の先生を目指すなら呆れてばかりもいられなかった。何より哲哉さんの運転に障ると乗車した皆が事故に見舞われる。
「騒がないよ。」
永野が思い切って声を掛けた。途端、今まで騒いでいた子供たちが静まり、永野の方を見て次の言葉を待った。永野はそれ以上話すつもりはなかったが、何か伝えなければならない気まずい雰囲気になった。仕方なく、また同じ言葉を今度は優しく言った。子供はこれまでよりもトーンを下げてじゃれあっていた。伝わったのか手応えはなかったが前と比べると静まった。これが先生だと繰り返されるんだなと思った。車は山側の道を上り進んだ。狭い片側一車線の道路を進んだ。土地勘がないと迷いそうだった。店に着くと子供たちは大はしゃぎで店に入り、空いていたので座敷のテーブル席に着いた。席に着くと車内であれだけ騒いでいたのに店内ではそれぞれがゲーム機で遊び始めた。おかげで静かになったが、店内でどう静めようか言い方を考えていただけに拍子抜けだった。注文したソーキ蕎麦が出て来るまで隣りの席の哲哉さんと話をした。
「ゲームをしている時は静かでしょ。」
哲哉さんがにやりと笑った。
「本当ですね。車の中とは大違いでびっくりしました。」
永野が感心しながら答えた。
「敦さんは、仕事辞めたって姉から聞いたけど、これからどうするの?」
「辞めた直後はデスクワークの仕事よりも体を動かしている仕事に就きたくて板前さんに弟子入りしようかと思ったのですが、前のバイト先の板前さん連絡が取れず、店も潰れてしまっていたので諦めました。今は中高の教員免許があるから先生を目指すつもりです。」
「へぇ、そいつはすごい。沖縄じゃ、先生はエリートだよ。仕事が安定しているから綺麗な一軒家に住めるよ。」
哲哉さんが感心した様子で話した。
「私はまだ先生になった訳ではないですし、目指しているのは小学校の先生なのでこの後、通信制の大学に入って単位を取って小学校の先生の免許を取らないといけないです。先は長いです。」
「大変そうだね。でもこれだけは言っておく、若いうちは無理が利く。僕なんかの年になると気力、体力、そして家族ができると養わなければならないから冒険できないんだよ。」

抱えている事情はそれぞれ違うと他人事のように聞いていたが、その後、永野は家庭をもち、養う立場になるとこの時の言葉が身に染みて理解できた。その後、哲哉さんが社会人になった頃の話を教えてもらった。東京に出て仕事に就いたが合わずに辞めたこと、その頃、祖母が沖縄に戻ったと聞き、後を追って沖縄に行ったこと、近くの港で毎日、釣りして過ごした日々、港なのに海が綺麗でここに住んでもいいと思ったこと、実際に住むことになったが仕事か見付からず苦労の連続だったこと等を話してくれた。また、ソーキ蕎麦を無邪気に食べている子供たちを見ながら、この子達も将来、仕事に就くために本土(本州)に出て行くことになるだろうと話してくれた。そんな話を聞きながら永野は沖縄が抱える雇用の確保の問題に塞がる気持ちが拭えなかった。

永野は沖縄から戻ると通信制の大学を調べ、資料を取り寄せた。また、依願退職してから三ヶ月経ったので失業手当てを受け取れるのかハローワークに訪れた。窓口では需給対象者は厚生年金に加入し、かつ依願退職の場合、三ヶ月経過し、現在就職活動中の場合に限られると伝えられた。斡旋している仕事を見ると永野が勤めた職種のマニュアル作成の仕事もあった。しかも仕事に就くまでにコンピュータを操作するスキルを高める講習も受けられると分かった。しかし、永野にとって再びコンピュータ会社に就く気にはなれなかった。永野は需給期間にアルバイトをできないか聞いた。すると、他に収入がある場合には需給の対象から外れると伝えられた。永野は次に目指す仕事は教員なのだし、需給対象になるために就職活動しているポーズを取るよりも需給する権利を放棄し、小学校教員免許を取り、採用試験に一発で合格する環境を整える方が得だと思えた。永野は教員採用試験対策として専門予備校に通うことを計画しており、費用は退職金としてもらったボーナスを当てようと考えていた。また、通信制の大学で単位をとるのに勉強詰めの生活は耐えられないと思い、短時間のバイトで気分転換をしたかった。コンビニバイトなら早朝から三時間の求人を見付けていた。
「失業保険をもらうためには就職活動中で現在、収入がない人に限られます。」
窓口の女性がそう話した。
「そんなに縛りがあるようなら私は辞退します。早くバイトをして稼いだ方がこの先の予定が立てられます。」
永野がそう話すと、女性は困惑した表情を浮かべて
「まぁ、若いからすぐ働けるだろうし、それも良いと思いますよ。」
結局、失業手当てを放棄し、バイトをしながら教員を目指すことにした。

二〇〇八年十月三十一日カリフォルニア州のインターネットプロバイダーからサイファーパンクを名乗る思想団体のメーリングリストに一通の投稿があった。添付されていたのは「Bitcoin A peer to peer electronic cash system」という英文で書かれた論文とビットコインを動かしているオープンソースコードを公開するリンク先だった。投稿の目的はデジタル貨幣の仕組みを紹介し、その価値を世に問うものだった。この投稿から一ヶ月後、永野は吉野からメールを受け取った。以前、吉野が設定しメールアプリケーションが動き出したのは7年振りだった。永野は着信を受けるとすぐに開いた。
「久しぶり。元気にしているか?」
「まさか連絡をもらえるなんて思わなかったよ、驚いた。私は仕事を辞め、今は小学校の先生をしているよ。あと五月に結婚もした。吉野さんはどうしているの?」
すぐに吉野から返信が届いた。
「先生になったのか!そいつはすごい。何よりだよ。俺はついにデジタル貨幣を作ったよ。」
永野の脳裏に以前、吉野が話してくれた通信方法を思い出した。
「前に言っていたピア通信とかの話?」
「そうそう。あの後、暗号技術をソースコードに搭載し、決済システムを作り出したよ。」
吉野が興奮した様子がすぐに浮かんだ。だが、永野はようやくコンピュータの知識を求められる仕事から抜け出せるまでずっと食傷気味だったので吉野のコンピュータ談義に合わせる気にならなかった。
「あの時、話していた夢が実現したんだね。素晴らしい。」
永野が手放しで称賛すると、吉野は相手があまり関心ないと気付き、それ以上、詳しい話をしてこなかった。ただ、永野に依頼したいことがあり、話はその本題に向かった。吉野が始めたデジタル貨幣が広範囲に渡っても正しく機能するかテストに協力してほしいという内容だった。まず、吉野が開設したサイトに繋ぎ、デジタル貨幣を取引するアプリケーションをダウンロードする。次に、指定されたアカウントでサインインする。最後に、マイニングという操作を実行し、機能を検証するというものだった。永野は手順どおりにマイニングの実行まで進むが、その後、カーソルが砂時計の表示になり、先に進めなかった。吉野に恩を返せるまたとない機会だったので永野は惜しみ無く協力した。

二〇〇九年一月三日、永野はハネムーンでフィンランドに来ていた。旅行先をヘルシンキにしたのは一生に一回の機会となるためこの先、絶対に行けない都市を選んだ。また、永野夫妻が唯一の共通の趣味であるムーミンの作者トーベヤンソンの故郷を見たかったからである。羽田を立ち、関西国際空港、アムステルダム国際空港を経由してようやく到着した。実はここでも吉野からの依頼を受けた作業があった。ヘルシンキの都市からマイニングを試み、成功させることができるかの検証だった。マイニングが成功すれば初になると聞いていた。ヘルシンキのホテルにチェックインした後、妻が風呂場でひと休みしている間に永野は早速、作業に取り掛かった。部屋専属のバトラーに部屋でインターネットに繋がる端末をレンタルしたいと伝えた。吉野の開設サイトに繋ぎ、ログインしマイニングを始また。すぐに成功したことを知らせる通知が届いた。その後、吉野に無事に作業を終えたこと、今後、もし協力できることがあれば引き続き力を貸すことを伝えた。
吉野は取引を開始してから二年ばかり経つと事業を他に任せて忽然と消えた。開発者としての名前は匿名を貫き、百万BTCあまりの莫大なコインを残した。国家が作り出す貨幣の枠組みを根本から変えた彼の行為を快く思わなかった合衆国政府から訴追の怖れがあったとも噂されている。
吉野が始めたデジタル貨幣は現在も取引が続けられている。