「神様ロード」


涙が出てきた。止められない。またメッセージが入った。
(今は、帰宅中ですか。)
義理の妹の妙子からだった。
(今、搬送先に向かっています。駒沢公園近くの東京医療センターです。)
すぐに学は返信した。涙が止まらない。鼻先にも鼻水が垂れてきた。電車がホームに入り、人が乗り込んできた。若い女性が学の前に立ち、つり革を掴んだ。見られるのが恥ずかしかった。山手線の車内で中年男性が一人涙を流しているなんて聞いたことがない。何か拭うものはなかっただろうか? ハンカチは持ってなかったはずだ。ポケットを探った。この不織布の感触は何だろ? マスクだ。前に使ったのがまだポケットに入っていた。マスクで鼻と口を覆えば泣いているところを誤魔化せるだろうか。マスクを付けた。だいぶ気持ちが落ち着く。

学は、渋谷駅で乗り換え、車内のシートに座り、目を閉じ、深くうなだれた。携帯に着信が入った。学はLINEを開いた。
(連絡あった?)
妻の真美からだった。
(ありました。搬送先に向かっています。東京医療センターです。)
(今、どの辺りですか?)
(池尻大橋です。)
(ありがとう。)
その後、学は、すでに送られていた真美のメッセージをもう一度、見た。
「お父さんが血を流して倒れている。死んでいるかも。」


「お義父さん、怒っていたね。玄関で会うなり、『がっかりしたよ。』って言われてしまったよ。」
学は、真美に伝えた。学がラザニアをオーブンに入れ、四十分のタイマーを掛け、真美と一緒に散歩に出たのがいけなかった。オーブンの中で具材がぐつぐつと煮えて、やがて表面のチーズが香ばしい香りを放ち始めた。焦げてる、焦げてると騒ぎ出したのがその頃、同居していた妙子で、すぐに義父が反応し、火元を確かめるべく、二階に上がってきたところ、オーブンの耐熱ガラス越しに煮えたぎるラザニアを目撃したのだった。
「お父さんも慌てて止めてね。大変だったんだから。」

後から妙子に言われた。大失態だった。同居人がいるからと甘えてしまった自分がいけなかった。以前、学ら家族だけで暮らしていた時には、オーブンとはいえ、調理中に出掛けるなんて決してしなかった。火の後始末、戸締り、ゴミ捨てといったものは自分ら家族で完結させておかないと次も似たようなことが起こるなと感じた。生活様式を二世帯の暮らしに慣らしていかねばならない。今から、十年近く前のことだった。その頃、学ら家族が義父と二世帯で暮らすようになった。義父は妻に先立たれ、男やもめの生活になるのなら一緒に住んでしまえば、食事や掃除などお互い助け合えるはずだと考え、同居を決めた。妻の実家は建物も築五十年と古くなっていたので、この機会に義父と学が共同出資し建て替えをした。一階は義父が暮らし、二階は真美と学夫婦と二人の息子達、そして義理の妙子が結婚して嫁ぐまで一緒に生活を共にしていた。子供たちが家中、走り回るので階下の義父からうるさいよと苦情が入ることはあるが、身内の間柄であるので、その後、しこりにはならず、後腐れなく、お互い気を遣いつつ生活するようにしていた。学はまさか自分が世田谷区に住むようになるとは考えていなかった。東京に越して来た時、国分寺市で生活し、中央線が都心に出る最も効率の良い移動手段で絶対に外せない大動脈だった。しかし、世田谷区に住むと中央線を経由しないで移動でき、世界の中心が別にあったということが驚きだった。都心に出るアクセスも二十分程で済み、住宅街で車の通りもまばらで子育てするのも安心してできた。その恩恵に預かれたのは妻の真美のおかげであり、この地を親の代から引継ぎ、大切に守ってきた義父の存在が大きかった。義父は土地と家を守る意識が強く、庭の手入れや周辺を普段から綺麗にすることに心を配っていた。一度、建替えの際、別の地に仮住まいを始めた時は、その土地に愛着がもてなくて庭の手入れもする気になれないと愚痴をこぼしていた。土地への意識が違うと気配りがこうも違ってくるんだと学は、義父を見ていて思った。また、義父は稽古事で能を習っていて、学と真美が付き合っていた時には、発表会に招待してくれていた。同居を始めた時には、学の長男と次男は義父から仕舞の手ほどきを受けていた。
「高砂のぉ。」
と幼かった息子達が台詞を真似ながら階下から戻ってくる姿は見ていて可愛かった。義父は定年後も続けられる趣味として能を始め、数年前には厳島神社で行われている舞に参加するほど、精力的に取り組んでいた。能にのめり込み、能楽師を自分の生き方の参考にするところもあった。また、発表会に知人や家族、親戚を招いていて社交手段の一つにしていた。妻を亡くした後、義父にも恋仲を噂された女性がいた。
「お父さんはあの女性が好きなのよ。」
と新築祝いで招かれた、義父の同窓仲間の一人を指して真美がこっそり教えてくれた。独り身同士、晩年に所帯をもつのも良いものだなと学は思ったこともあったが、その後、義父は独身を貫き、相手の女性は別の男性と結婚した。義父の控えめで、慎ましい態度では、相手の女性から好意的に受け止められるが、添い遂げるまでには発展できなかった。学が義父の無念の心の内を推し量っていると、後から真美が教えてくれた。「相手を哀しませるといけないから。」と義父から女性と結婚に踏み切れなかった胸の内があったらしい。それというのも自分が先に亡くなり、嫁ぎ先で一人残される女性の境遇を想像すると耐え難いと先々まで考えた上の結論らしい。おそらくその理由は後付けで、義父の優柔不断な態度に相手の女性が煮えを切らしてしまったのだろう。いつまでも奥手である反面、堅物なところもあった。食事中の箸の置き方にも家族に作法を重んじるように話していた。
「学さん、そんな箸の置き方はいけません。『渡り箸』といって『ごちそうさま』の意味になりますよ。」
「玄関の靴は踵を揃えて。」
義父は礼儀作法で家族を統制し、神経質な管理者として君臨していた。周囲に細かく気を配る義父の行動が家庭内に影響を及ぼす分には、心許せる間柄なので済むのだが、近所の住民にも向けられてしまうところがあった。新しく引っ越してきた若い世帯がゴミの出し方が出来ていないと黙っていられなかった。袋の中身を確認し、回収日を守るように貼り紙をして相手に抗議することもあり、そんな義父の行動が、本人が自覚なしに敵を作る結果になり、学は危なっかしさを感じていた。ただ、年長者であり、真美の父親である義父に対しては、学は伝えることもできず、平穏無事に済んでほしいと願うばかりだった。また、誰かが義父を「波平さん」に喩えたことがあったが、まさにその人格がぴったりで頑固な性格、短気で信念を曲げなかった。定年後は、社会生活で怖いものがなくなり、ますますその傾向が顕著になった。
今朝、学が出勤し、更衣室で着替えていると、同僚から連絡が入った。
「学さん、奥さんから電話ですよ。セクシーな声でしたから、誰やろうかと思いましたわ。」
妻が職場に電話してきたのは初めてだった。また、始業前に掛けてくるのには余程のことがあったのだろうと予想できた。学は更衣室を出て、職員室で電話に出た。
「お父さんが血を出している。死んでいるかも。」
「何だって。で、今、どうしている?」
「救急車が来て、今、運ばれたところ。」
「どこの病院?」
「東京医療センターです。駒沢公園のあたりです。」
「分かった。今、どこから電話している?」
「家からです。私も同乗するように言われたのだけれど、インフルエンザに掛かっちゃったでしょ。救急救命の人にはパパの携帯番号を教えている。この後、電話がくるはずだから、出られるようにしておいてね。」
「分かった。今から病院に向かいます。」
学は受話器を置くと廊下を歩く副校長を見付け、すぐにそばに駆け寄り、
「副校長先生、家で父が死んでいるかもと妻から連絡がありました。ちょっと今から帰らないといけないんですが。」
「死んでいる? ちょっと校長室で話を聞かせてくれる?」
副校長と学は、職員室奥の校長室に入った。
「まず、誰から連絡が入ったのか教えてくれますか?」
と副校長が学に言った。学は妻から連絡が入ったこと、急を要することで直ぐに義父が搬送された病院に向かわなければいけないことを伝えた。その話を聞くと副校長は、
「分かりました。校長先生には私から伝えるから直ぐに向かってください。何か分かったら連絡してきてください。」

学は更衣室で私服に着替え、玄関で靴を履き替え校門に向かった。門の前では校長が立って登校してくる子供たちに挨拶をして迎えていた。学は校長の前まで来て話した。
「校長先生、ちょっと戻らなければならなくなりまして。」
学は自分の顔の筋肉がひきつるのを感じながら、伝えなければならない言葉を精一杯、絞り出すように伝えた。それを聞いて校長は、
「話は副校長から聞いています。早く奥さんの所に行ってください。」
「はい。」
学は返事をし、校長に一礼をするとすぐに校門を出た。


「お義父さん、私も教員免許を取るのに通信の大学で勉強したことがあるのですが、志望動機を聞かれますよね。何を書くのですか?」
学は食卓を囲んだ席で義父に尋ねた。
「法律を学んで社会の役に立ちたいと考えている。」
「どんな社会貢献を考えているのですか?」
「私のように学校を卒業したら当たり前のように就職先があって、仕事があった時代では、今はないよね。」
「そうですね。私が就職活動した時は超氷河期でした。就職先を見つけられれば良いですが、それが叶わなかった人達は今でも苦しんでいます。」
「会社は基本、新卒を採用するからね。中途採用も制度としてあるけれど、技能の長けた人ではないとおこぼれにあずかれないよね。」
「私の時は、会社が採用してくれて社員教育を受けたおかげで学生気分が抜け、社会人としての自覚が生まれました。就職は意識改革できるターニングポイントでした。」
「自覚さえ芽生えれば、後は本人が自分の意思をもって道を切り拓いていけばいいんだよ。」
「就職したくても、就職できない人達を何とか減らせる仕組みがあるといいんですけれどね。」
「今、企業もコンプライアンスといって社会的責任が重要視されていて、いかに社会に貢献するかが問われているんだよね。ただ、就職口を広げるためにむやみに雇用を増やす訳にはいかない。民間が率先してできることではないよね。」
「どちらかというと社会保障は国が行いますよね。」
「そこで、就職口を保障するセーフティーネットを作り上げる仕組みを法律で考えていきたいね。」
「なるほど。ハローワークとかありますけれど、若年層の就職支援を行い、社会人教育を施して社会人としての自覚をもたせる。一人一人が自己実現のために技能を身に付け、場合によって起業する人も生まれる。人材の能力開発の起爆剤のような仕組みを法律で作り上げられるといいですね。」
「『クールビズ』が典型だったけれど、国が推進すると民間にも広がる土壌がこの国にはあるからね。」
「本当ですね。お義父さんが法律を学んで社会貢献ができるといいですね。」
「絵に描いた餅になるかもしれないけれどね。」
「志ある所に道は拓けます。」
義父は定年後の時間を学業に費やすという志があった。一人で黙々と積み上げていく作業だった。余暇を満喫したいという発想と違い、禁欲的に理想を求める姿勢が見られた。学は義父に対して敬意をもって接していた。

義父はその後、通信制の大学に入り、勉強を開始した。独学で、日中は近くの図書館に行って長い時間、テキストを読んでいた。学も別の用事で図書館に行くといつも同じ席に義父がいて難しい顔で勉強していた。学からは義父に声を掛けることはなかった。義父の勉強に支障をきたしてはいけないという学なりの配慮だった。だが、逆に、義父から声を掛けられることがあった。
「やあ、学さん。探しものかね?」
「はい。算数の資料が見付かったのでコピーをしようかと。」
「そうかぁ、頑張るね。私もレポートの締め切りが近くて、なかなか捗らないんだ。」
「お義父さんも頑張りますね。仕事を辞めた後でも勉強をしようと思うことに尊敬します。私も見習わないといけないですよ。」
「なあに、時間があるからね。学さんも定年まで頑張ってね。」
「はい。頑張ります。」
「ただ、この図書館も取り壊すって話だから勉強する場所がなくなって困るな。」
「聞きました。本の貸し借りは閉校になった近くの中学校の校舎でできるようですけれど、自習は出来なさそうですね。でも、この図書館と裏の住宅が取り壊されると今まで迂回しなければいけなかったこの辺りが抜け道になって便利になりそうですね。」
「いつ頃かね。」
「予定は出ていません。公園ができるようです。」
「私はそれまでいるかね。」
「何を言っているんですか。長生きしてください。」
その後、図書館は取り壊されたがしばらく再開発はされず、ようやく最近になって公園の形になってきていた。義父は定年後、生き永らえていくことに弱気な発言が見られるようになっていた。

(今、東京医療センターにいます。)
学は妻の真美にLINEで連絡をした。
(申し訳ございません。)
真美から返信が来た。
(申し訳ないなんて言わなくていいよ。しばらくここにいます。親父がうちに向かっています。)
学は、病院に向かう途中、実家にメールをし、現時点で分かることを伝えた。二年前に定年を迎え、のんびり過ごしていた父にとって同じく定年を迎えていた義父の突然の出来事にさぞかし驚いたことだろう。自分ができることがないか学に尋ねてきた。学は妻がいる家に向かってほしいとお願いした。真美から返信がきた。
(すみません、本当に。…まだ分からない。)
学は、病院の救急救命センターに到着すると受付で義父の名を伝えた。待合室に向かうよう告げられ、部屋の中で待つように言われた。しばらくすると医師が現れた。
「先ほど、八回目の心臓マッサージを施しましたが、心肺が回復いたしませんでした。」
学は妻から最初に連絡が入った時点で、義父が命を絶ったことを覚悟していた。医者が最善を尽くしたという説明を聞いても搬送された後の蘇生措置では手遅れだと考えていた。期待もなく、義父が亡くなったという診断を知らされたに過ぎなかった。それ以上にどうすれば義父を救えただろうか、義父に伝える言葉の掛け方だったり、何時の機会であれば義父が命を絶つのを止めることが出来ただろうかを考えることに思考が向かっていた。義父の老後の生活の雲行きが怪しくなった出来事が半年前にあった。

その日、義母方の法事を済ませ、帰宅を済ませたその足で、学は家の近くの商店街の祭りにぶらりと立ち寄った。前の年、息子二人を子供山車に参加させ、大勢の観客が通りの両脇から見守る中、二十数名の子供たちで山車を引いた記憶があった。今回も盛り上がっているのだろうと様子を見に行った。途中、生ビールが百円で提供しているお店があったので、欲張って二杯飲んだ。ほろ酔い加減で家に向かっていると義父ともう一人中年の男が玄関先で立ち話をしているのが見えた。義父は誰と話をしているのか、近付くと隣の住人だった。義父が敷地の境界の塀の使用の仕方で度々、抗議をしている家の主人だった。
「隣り同士の言い争いなのにどうしてわざわざ大家にクレームを入れるんですか?」
「何度、言っても話し合いに応じようとしないからです。」
義父は毅然とした態度で言い返していた。
「これ以上、周りを巻き込んで問題を大きくするとこちらもただでは済ましませんよ!」
男は語気を強めて義父に迫った。学は義父の心労を慮り、すぐにでも両者の間に割って入れる位置に立った。
「それは脅しているのですか?」
義父は臆せず相手に言い返した。さらに学がそばにいることに気付いた義父は、
「学さん、大丈夫ですよ。この場にいなくても。」
と学を気遣った。学はその状況を放ってはおけず、その場に留まったが、酔いがだいぶ回っていたため、間に割って入って仲裁できる自信はなかった。情けない。こんな大事な場面で。腋や首の周りが熱い。せいぜい掴み合いになったら、体を張って止めに入る覚悟でいた。学が黙って様子を伺っているのに気付いた男は、
「おかしいですよね。大家さんに言うなんて。」
と同情を求めてきた。相手の家族に向かってよくも言えたものだな。頷けない。しかし、下手に言い返せない。
「これ以上、言うようですと警察を呼びますよ。」
義父は一歩も譲らぬ姿勢で相手に伝えた。相手もこれ以上、事を大きくするのは拙いと感じたのかその場を立ち去った。両者譲らず、落し所が見付からず、互いに主張しただけで終わった。
「大丈夫ですか。相手はずいぶん勝手なことを強い口調で言っていましたが。」
学が義父に駆け寄り、そう話すと、
「大丈夫です。厄介な相手だね。」
と義父が返事をした。

義父は動揺を顔には表さなかったが、相当、応えたようでその後、あまり外出をしなくなり、自室に籠る時間が長くなった。

「どうぞ奥のお部屋にお入りください。」
医者に促され、学は部屋に入ると簡易ベッドに寝かされている義父の姿が見えた。身体には薄いシーツが掛けられ、顔にも別の白い布がかぶされていた。学は義父の顔を覆う布をはがして顔を確認する気になれなかった。医者からの診断も出されていたが、義父の死を認めたくない気持ちを抑え切れず、どうしても義父を見ることができなかった。ただ、義父の前に立ち、どうすれば義父を救うことが出来たか、さらに思いを巡らせた。

義父は、前日、憔悴しきっていた。二階のベランダから偶然にも真美が帰宅途中の父親の姿を見ていた。ブレザーが着崩れていて普段、着こなしに気を遣っていた父親の姿ではなかった。近隣トラブルで半年前から相手と話し合い、誠実な対応を見せない相手に業を煮やし、調停での解決を図ろうとした。しかし、調停で相手が現れず、話し合いは空振りに終わった。同じ被害を受けている近所の人にも声を掛けての調停の席だった。義父は調停の場を設定するのに関係機関に手続きをとり、関係者に連絡し、準備に神経を使っていた。

その晩、学はいつものように義父と一緒に食卓を囲んだ。
「今日はお疲れさまでした。私の方で何も出来ず、申し訳ございません。」
学はまず、義父に調停に向けて何も協力を出来ていないことを詫びた。近隣トラブルを調停で解決を図ろうとした義父を孤立させないために掛けられる最善の心遣いだった。その後、調停での話を聞いた。学は何気なしに調停に参加した隣家の吉野さんのことが気になり、義父に
「吉野さんは仕事を休まれたのですね?」
と聞くと、義父は
「申し訳なかった…」
と一言答えた。その後、話が続かず、義父は鉄火丼を掻き込んだ。食べ終わった食器を流しに運び、軽く手を洗って滴る水滴を手首を利かせ払い落した。カウンター越しに学の顔に水滴がかかった。トラブルを抱えて以来、義父の手洗いの後の所作で学に水滴がかかることが続いていた。学は義父が故意にしている訳ではないだけに、周囲への心配りができなくなりつつあった義父の心の健康面を気にしていた。義父は手洗いを済ますとすぐに階下に行ってしまった。
「今回の調停で弁護士費用が発生しているんでしょ?」
「そうなの。十万以上のお金が掛かっているってお父さんが話していた。」
「今回、決着が付かなかったから費用がこれからも発生しそうだね。」
「出口が見えなくなるのが困るわね。」
「戦う相手がまずかったね。会社組織だと社会的制裁を与えられるけれど、自営業の人なんでしょ。」
「その点、黙っておけば無風状態なんだろうね。」
「調停を取り下げることもできるんだろう?」
「お父さん次第よ。」
「振り上げた拳の下ろし所が定まらないと終息しなさそうだね。」
学はそう言うと、翌日の授業準備に取り掛かった。その日、授業で立体図形を調べる活動をしたが、調べる図形もないのに調べさせるのも無茶だと出題しながら後になって気付き、次の日までに立体模型を準備しておくことを子供たちに約束していたのだった。工作用紙で簡易ではあるが、一人一つ立体を用意しておけば集中を切らすことなく授業に取り組めるであろうというねらいがあったので、手間ではあったが、三十五個の立体を作り始めた。
「これだけは、仕上げよう。」
いつしか、独り言を言うようになる深夜まで作業は続いた。眠気と疲れが限界に達していた。ん…一階の子供転倒防止用の柵を開けようとする音が聞こえる。お義父さんが二階に上がってこようとしているのか? こんな時間に迎えるのも困るぞ? 上がって来ないのか? また、柵を開ける時の音が聞こえる? いったいどっちなんだ。上がってくるのか、そのつもりがないのか? よし、決めた。上がってきたら迎えよう。だけど、こちらから階下に下りて「どうしましたか?」と話すのは止そう。
「あなた、何時まで起きているの?」
寝室から台所にお茶を取りに来た真美が言った。
「あと、少しで終わる。それが出来たら明日の準備は終了。」
学は最後の一人分の立体を作り終えて寝室に向かった。義父は結局、二階に上がって来なかった。

学は医師から義父の死亡時刻を告げられ、その後、義父の遺体が横たわるキャスター付きの簡易ベッドに従い、地下の霊安室に向かった。霊安室の入り口に受付台とおぼしき一角があり、そこに眼鏡を掛けた小柄な男が立っていた。
「この度は、大変、お気の毒な事でご愁傷さまでした。葬儀の方はお決まりになりましたでしょうか?」
「いいえ、まだ、何から始めればいいのか…」
「もし葬儀が決まっていないようでしたら、私、葬儀屋でして、よろしければご案内をお渡しいたしますので、良かったらご連絡ください。」

学が葬儀屋と話を終えると三人の男が近付いてきた。
「世田谷警察の者です。今回、大変、痛ましい出来事で心中、お察し申し上げます。ご家族の方でしょうか?」
「はい。義理の息子です。」
「息子さんですか。お聞かせ願いたいのですが、よろしいでしょうか?」
「分かりました。どうぞ。」
「お義父様が自分から命を絶つ原因が何か分かれば教えて頂けないでしょうか?」
「はい。義父は半年前から隣の家とトラブルになっていました。両者の話し合いでは解決できず、調停で話し合おうと義父が取り付けました。しかし、当日、相手は現れず、相手の誠意のない態度に義父はひどく落ち込んでいました。そのことが大きく影響していると思います。」
「分かりました。その後、お義父様はどんな感じでしたか?」
「晩御飯を一緒にしたのですが、元気がなく、話し掛けてもあまりしゃべらずに自分の部屋に入ってしまいました。」
「部屋に入った後、異変に気が付きませんでしたか?」
「異変といえば夜中に階段のところで義父が物音を立て、それが何度か続きました。」
「声は掛けなかったのですね?」
「はい。二階に上がってきたら、話そうとしていたのですが、上がって来なかったので話ができませんでした。」
「なるほど。今朝はどうでしたか?」
「私は朝が早いのでいつも通り支度を済ませ、家を出ました。変わった様子はなく、私はいつも通り出勤しました。」
刑事の一人は、学から聞き出したことを手元の手帳に書き留めた。その後、刑事は同僚三人との立ち話に入り、しばらくするとまた刑事が話し掛けてきた。
「これからご自宅に向かいましょう。病院には何で来ましたか?」
「電車とタクシーです。」
「では、パトカーで向かいましょう。お義父様は鑑識がありますので警察で預からせていただきます。」
学は、これまで経験していなかったことが続き、その対応に追われ自分が受け身になっているのを感じた。そしてこの先の見通しをもてず、不安を感じた。そこで、学は刑事に自宅で何が行われるのか尋ねた。
「これからご自宅に伺わせていただき、奥様からも事情を聞かせてもらいます。また、現場検証をさせてもらいます。あと、お義父様の方は、鑑識の後にご連絡を差し上げますので、それまでお待ちください。それでは、早速、向かいましょう。」
刑事の後に続き、学は地上階に出た。そして建物の外に出るとパトカーに乗り込んだ。運転席にはすでに警察官が乗っていた。学が自宅の住所を伝えるとパトカーが動き出した。
パトカーは商店街通りに入り、将棋屋の手前で曲がった。この商店街は元は、ある寺院の参道で参拝客を相手に商店が発展し、最近では、カフェや飲食店で賑わっている。あっ、今日もいる。通りに焼き芋を売る三十代くらいの男の姿が見えた。夏でも焼き芋を「冷やし焼き芋」と商品化して路上で売っていて、そのたくましい商魂で存在感を放っていた。

パトカーで自宅前に近付くと、家の前には「立ち入り禁止」の規制線が張られていた。近所の人が学の自宅の方を見ながら立ち話をしているのが見えた。
「何、騒いでいるんだよ。」
パトカーを運転する警察官が学に気を遣ってなのか車内で声を上げた。玄関の前には既に警察の黒いボックスカーが一台、駐車してあった。玄関を開けるとたくさんの靴が並べてあった。靴を脱ぎ、奥の部屋に行くと真美が三男を腕に抱き、涙を流して座り込んでいた。三男は一歳を過ぎ、乳児がもつ免疫力が下がったためか、数日前にインフルエンザに掛かり、母親の腕の中でぐったり眠っていた。真美の周りに義理の妹、そして学の両親が座っていた。一緒に来た刑事は先に来ていた警察官に案内されて義父の部屋に向かった。学が顔を見せると学の父親が駆け寄り、声を掛けた。
「おお、学が帰って来た。学、真美さんのそばに行ってあげて。」
学が真美に視線を向けるとすっかり疲れ果てた妻の姿があった。学は真美に近付き、声を掛けた。
「大変だったね。」
真美は学の言葉に返事する気力がなく、ただ嗚咽を繰り返すばかりだった。
「お義父さんは助からなかった。」
その言葉を聞くと真美は声をあげて泣き出した。学は真美の泣き崩れる様子を見ながら何かをしてあげられるようなことも思い浮かばず、ただ見守ることしか出来なかった。真美の近くに妹の妙子がいて、父親の訃報を姉妹で共に受け止め、嘆き悲しむ姿が見られた。学は真美や妙子の様子を見守りながら、二人が少し落ち着くのを待った。しばらくして真美に
「お義父さんの遺体は世田谷警察署に運ばれたよ。いろいろ調べるんだって。」
「そう。」
真美は力なく返事をした。学は今朝の自宅の様子について真美に尋ねた。
「今朝は、私が家を出る時には、特に変わった様子はなかったよ。真美はどのようにして気付いたの?」
真美は顔を上げ、学に向かって話し始めた。

真美は朝、一年生の崇史を玄関で見送った。何だろう、一階が普段と違って重たい空気が張り詰めている気がした。普段、この時間帯にこんな暗いのはおかしい。真美はすぐに雨戸が締め切られていることに気付いた。いつもだったら、お父さんが朝早くに雨戸を開けているのだが、今日は閉じられたままだった。昨日、疲れ切っていたからまだ起き上がれずにいるのだろうか。真美は父親のいる和室の扉を開いた。ん…、お父さん、何しているの。父親が部屋の中央に敷かれた布団の上でうつ伏せに倒れ込むようにうずくまっている。お父さん!真美が部屋に足を踏み入れると、足の裏に粘りつくような感触があった。何、血!血を吐いたんだぁ。大変だ。真美はあわてて父親のそばに駆け寄り、両肩に手をやり、顔を覗き込んだ。支えた身体は力なくぐったりとしていて、うつむいたまま動く気配がなかった。
「お父さん、大丈夫?」
大量の血が真美の手にも付いた。どうしよう。救急車を呼ばなきゃ。真美は今、何をするべきか考え、行動に移していた。自分が妙に落ち着いて動いていることに内心、驚きもしたが、早く助けを求めないと助かる命も助からなくなるという一心で一一九番に電話を掛けた。オペレーターの問いかけに「救急」であることを伝え、発見時刻、自宅住所、現在の状況を伝えた。電話を終えた後、真っ暗な父の部屋の中で救急車が早く到着してほしいと強く願った。また、この後、夫の学に連絡すること、次男の幼稚園にお休みの連絡をすること、三男はインフルエンザに掛かっているので、看病しなければいけないことが思い浮かんできた。まずは、救急車を待とう。遠くでサイレンの音が聞こえる。玄関まで迎えよう。玄関の扉を開けると目の前の路地に一台の救急車が止まっていた。しばらくすると中から救命隊員が三人出てきて真美の家に掛けてきた。真美は、父親の部屋を伝えると、隊員は走って部屋に入って行った。
「発見したのはいつですか?」
「八時頃です。」
「動かしてない?」
「うつ伏せだったので、起こしました。」
「今から、救急車に乗せます。」
救急隊員の矢継ぎ早の質問に応えながら、二階にいる子供たちを放ったらかしにしていることが気になった。この状況は見せられない。気付かず、テレビを見ててくればよいがという願いも叶わず、次男が階下に下りようと二階の転落防止柵を開ける音が聞こえた。真美は子供がいるんで止めに行きますとだけ隊員に伝え、部屋を飛び出した。階段途中で次男を引き止め、二階に連れて行こうとした矢先に、部屋から隊員が飛び出してきて『そばに包丁がありましたよ。』とわざわざ真美に見せに来た。包丁? 何でそんなものが出てくるの? まさか、父が自分で? その直後、和室から担架に乗せられた父親が運ばれていった。
「おじいちゃん、赤かったよ。」
と次男がつぶやいた。見せちゃいけなかった。次男と救急隊員の両方に対応するうちに次男が義父の姿を目撃するのを許してしまった。

真美が語った話の内容を聞き、学は、
「大変だったね。翔太は今、どこにいるの?」
「二階でテレビを観ているわ。相手をすることができなくてね。」
「ちょっと見て来るね。」
学はそう言って二階の翔太の様子を見に行った。翔太は居間のソファの上で寝転んでアニメを観ていた。
「翔ちゃん、パパが帰ったよ。」
「やあ。おかえり。」
次男は特に変わった様子はなかった。今朝、起きたことをどうように受けて止めているのかその表情からは窺い知ることはできなかった。ただ、根掘り葉掘り聞き出すのも躊躇われた。案外、落ち着いているのでしばらく様子を見ることにし、まずは階下の対応をすることにした。
「ママとパパは下にいるからね。何か困ったことがあったら、声を掛けてね。」
「わかった。」
学が一階に戻ると、義父の部屋を調べ終った刑事が真美のそばで手帳を片手に聞き取りをしていた。その様子を見ながら、学はこの先、何をしなければいけないかを考えた。義父が亡くなったので葬式もしなければいけないし、義父が亡くなったことを知り合いに伝えなければならない。そのための準備も必要だから仕事もしばらく休まないといけない。学は突然、降って沸いたやらなければならないことに気持ちが塞がる思いがした。どれから手を付ければよいのか考えた時に、副校長の「何か分かったら連絡してください」の言葉を思い出した。
「ちょっと、職場に連絡しなければいけない。ただここでは話したくないな。」
学は独り言のように言い、家で話すと次男に聞かれる怖れがあるしどうしたものかと考えを巡らせていると、近くにいた警察官が
「前に止まっているバンの車内で話したらどうですか?」
と機転を利かせて助け舟を出してくれた。警察官に案内されて学は、玄関前に止めてあるバンの車内に移動した。車内には運転席にもう一人警察官が座っていた。案内してくれた警察官が
「車内で電話したいんだって。」と中の警察官に声を掛けた。運転席の警察官は、
「席を外しましょうか?」
と声を掛けてきた。学は、
「大丈夫です。そのままいてくれて構いません。」
と直ぐに答えた。学は携帯電話を取り出し、職場に電話した。直ぐに副校長が電話に出た。
「どうでしたか? まあ、いろいろ大変なことになっているでしょうけれども。」
電話口からいつもの調子で副校長の声が聞こえてきた。
「義父が亡くなりました。しばらく休まなければならないのですが。」
「そうでしたか。大変でしたね。聞かせてもらっても良いですか? お義父様の死因は何でしたか?」
「自殺です。あまりにも突然で、どうすれば良いのか。」

学は、副校長に自分の今の状況を説明していると、急に自分が惨めだなと思えてきて涙がこみ上げてきた。義父の死が知らされてから人前では涙を流すまいと必死で駆け回ってきたが、自分の今の惨めな境遇を誰かに話す時には涙が出てくるんだと気付いた。電話口で学が取り乱していると、副校長の声が聞こえた。
「こんな時だけれど、落ち着いてください。あなたが一家の大黒柱なんですよ。大変なのは分かります。…実は昔、私の兄もね、自殺したんです。」
「そうなんですね。お伝えしにくいことをおっしゃっていただき、申し訳ございません。また、この先のことが分かりましたらご連絡いたします。」
「連絡の方は急がなくて良いですよ。それより、気を確かにご家族を守ってあげてください。」
「ありがとうございます。」
いつもはお道化て人を笑わせてばかりいる副校長がまさかそんな境遇を背負っているとは露知らず、学への理解を本気で考えてくれていることが有難かった。また、自分だけがこのような困難な目に合っているのではないと思えるようになった。学は車から出て、再び、家に入った。
「学さん、お義父さんの部屋、掃除しない?」
学の母親は、学の近くで声を掛けた。
「先ほど、片付けをしてくれる業者に連絡し布団とか大量の血を掃除してもらったはずだけど。」
「周りの家具とかに飛び散っている血をそのままにしておけないでしょ。あなたが、血が駄目だったら私一人でするけれどね。」
「私は大丈夫です。お義父さんの部屋を綺麗にしましょう。」
学の母親と学は、義父の和室に入った。布団が敷かれていた辺りは、黒く染みが付いていた。家具には細かな血の粒が固まってこびり付いていた。持ってきた布巾で擦ると染みは直ぐに落ちた。
「大変だったね。お義父さんは何を思い詰めたのかね?」
「昨日、調停で相手にすっぽかされたのが大きいと思う。」
学は、言おうか一瞬、躊躇したが、学の母親の問いかけに応えてしまっていた。
「そうだったんだ。そんな相手だったら、調停をしなければ良かったのにね。」
「私達も反対したんだよ。でも、お義父さんはこのままだと隣の塀が崩れた時、うちに被害があるって聞かなかったんだよ。」
隣とのトラブルとは、家と家との境になっている塀に隣宅の屋根からシートを垂らして家と塀との間に屋根付きのスペースを作っていることが原因で起きていた。その工作物が違法だと義父が訴えていた。民法では敷地の周囲一定幅には、構造物を建ててはいけないとあり、それを根拠にした訴えだった。また、その法律では、常態化してしまうと双方の合意と見なされてしまうことも義父を急かさせた。
大方、家具に付着した血痕を落として、学は母親と和室を出た。

学がリビングに行くと真美が刑事から事情聴取を終えたところだった。玄関で刑事と警察官を見送ると家の中は学の家族と駆け付けた親族だけになった。
「刑事さんがお父さんの部屋から見付けたんだって。」
真美がそう言って見せてきたのは、義父の携帯電話だった。真美が見せた画面には、義父が残したメッセージがあった。
「孫の代まで問題を残してしまったことを申し訳なく思っている。吉野さんにも迷惑をかけた。私はもう疲れた。定子のところへ行く。」
遺書ととれるメッセージには、義父の憂慮の思いが込められていた。学はもう一度、義父に会って言いたかった。一言、このメッセージにある苦しみを話してくれたら、一緒に戦ったのに。学には自分が動き出す一線を決めていた。今回の調停の行方で自分も前面に出てトラブル解決のために、奔走しなければならないと思っていた。これから義父を支えようとしていた矢先、義父が亡くなったのは大きな痛手であった。また、先陣で奮闘していた義父を休ませ、自ら矢面に立たねばと覚悟した直後に、義父が倒れてしまっては肩透かしを食らわされた感じがした。
「一言、言ってほしかった。」
学が呟くと、真美は
「ああ、失敗したなぁ。私がお父さんに、もう調停を止めようって、もっと早く言えば良かったなぁ。」
と投げ遣りな口調で言った。学にはもうひとつ心配があった。まもなく下校してくる長男に義父の死を伝えなければならなかった。昨晩まで一緒に夕飯をとり、気落ちしていたとはいえ、気丈に立ち振る舞っていた祖父が突然、この世から姿を消したのだ。長男が義父の死をどのように受け入れるのだろうか想像が難しかった。
「もうすぐ崇史が帰宅するよね。お義父さんのこと、何と言えばいいのかな?」
真美は、しばらく考えた後に、
「やっぱりおじいちゃんは今朝、亡くなったことを話そう。ただ、自殺とは言わないでね。刑事さんにも聞いたんだ、似たケースで家族に自殺した場合、周りにどう説明するのかって?」
「説明?」
「だってご近所の方にも聞かれるでしょ。パトカーが来て、規制線が張られて、何事か気になるはずでしょ。その場合は、『心臓発作』と説明するといいんだって。家で人が亡くなった時には警察が来て状況を確認することになっているからだって。」
「分かった。では崇史にはおじいちゃんは心臓発作でなくなったと言うね。悲しむだろうな。」
「そうだね。学校から帰ってくると必ずおじいちゃんが家にいて玄関で迎えてくれていたからね。」
学は、長男が帰ってくるのを待つことにした。学の両親は真美の妹の妙子が駆け付けたこともあり、人手が必要な時に連絡をしてくれたらまた来ることを約束して帰って行った。その後、しばらくして崇史が帰って来た。学が玄関を開けると、崇史はこんな時間に父親がいるのを驚いた。
「おじいちゃんが大変なことになってね、仕事を休んで帰って来たんだ。」
「おじいちゃん、どうかしたの?」
学は、覚悟を決め、崇史に話した。
「おじいちゃんは、今朝、心臓発作で亡くなったんだよ。」
崇史は、突然、祖父の死を知らされ、どう受け止めれば良いのか分からなくなったようで、声を荒げて叫んだ。
「嫌だ。そんなの、嫌だよぉ。」
崇史は、途中で涙声になり、泣き顔を見せたくなかったのか流しの方へ駆けて行った。学が様子を見に行くと崇史は流しで水を勢いよく出して顔を一拭きした。その後は、少し落ち着いたのか泣かなくなった。伏し目がちに気持ちを整理している崇史を前にただこの現実を受け止めてくれと思うことだけが学にとって精一杯の願いだった。家の中はすっかり生気を失い、家族がいるのに静まり返っていた。その後、学は真美と妙子に病院であったことを話し、義父が警察署で鑑識を受けていること、近日中に自宅に連絡があることを伝えた。学は子供たちをお風呂に入れ、夕飯を食べさせ、その後、寝かしつけているといつの間にか自分も寝てしまった。
夜中に、ふと目が覚めると真美と妙子の泣き声が居間から聞こえてきた。
「何でこんなことになっちゃうのかね。」
「お父さんは自分の信念を崩さず生きたんだから、立派に生きたんじゃない。」
なぜ、こんなことになってしまったのか、一層、これが夢であって、目が覚めたら、義父が健在でいつもの日常が始まればどんなによいかと思った。学は目を閉じ、そのまま、眠りに入った。

翌日、午前中に警察から電話が入り、午後二時に、警察署に来るように連絡が入った。警察から連絡を受けたら電話してほしいと前日、葬儀屋から言われていたので学は連絡を入れた。
「午後二時、世田谷警察の一階受付ですね。分かりました。弊社の社員を一名向かわせます。名前を引田という名の者を向かわせます。」
学は警察署に行き、何があるのか分からぬまま、相手にも尋ねもしなかった。言われた場所に行き、そこで何をするのか考え、判断に迷ったら相手に尋ねて、その状況を何とか切り抜けようと考えた。目の前で起きていることは、これまで経験したことのない、分からぬことだらけの連続だった。

午後二時に学は、世田谷警察署に行った。受付で待っていると小柄な若い男が学の方にやって来て、隣に並ぶように立った。周りが普段着でいるのに一人だけスーツを着ているのでこの男が引田に違いないと学は分かった。しかし、全く話し掛けてこないので学の方から声を掛けてみた。
「引田さんですか?」
「はい、私が引田です。安永さんですね。はじめまして。」
引田は、学の正面に立ち、礼儀正しくお辞儀をした。
「引田さん、つかぬ事をお伺いしますが、私はここで何をすれば良いのですか?」
「はい、受付を済ませられていますよね。それでしたら、名前を呼ばれたら、案内の人に従ってください。亡くなられた方のご遺体のある部屋まで行きます。」
「それでどうするのですか?」
「監察医から調べた結果を伝えられ、その後、ご遺体の引き渡しになります。」
「えっ!こんな所で引き渡されてもどうやって運べば良いのですか?」
「困りますよね。そこで弊社がお車を用意させておりますので安永さんに代わって運ばせていただきます。」
これってお義父さんの遺体を引き取りに来たんだ。惨めだな。学は、自分が警察署に来た目的を知り、お義父さんの遺体を引き取ることの意味は頭では理解しつつも、その行為に前向きな気持ちになれず、ただ虚しさが募ってしまった。
「まずは警察から呼ばれます。それが終わった後に詳しく話しましょう。私はそれまでここで待っていますから。」
学は義父が不慮の死を遂げた以上、この先の成行に身を任せるしかできず、ただ指示されるままに動くしかなかった。
「安永さん、いらっしゃいますか?」
学は受付に呼ばれた。案内の女性が先に行き、学は後を追った。事務机の間を通り、入口に「取調室」と表札のあるスペースに通された。
「取調室でするんですね。」
学が案内の女性に話すと、
「はい。こちらでお待ちください。お医者様が来ます。」
と返事の後、案内の女性は退室して行った。しばらくすると昨日、学を事情聴取した刑事と白衣を身にまとった大柄な男が現れた。
「昨日は、いろいろとお世話になりました。」
学が声を掛けると、刑事は硬い表情を浮かべ、
「こちらこそ、昨日はありがとうございました。これから、お義父様の鑑識の結果をお伝えいたします。こちらが監察医の山口先生です。」
刑事から紹介を受け、監察医が学に一礼をした後、
「早速、鑑識の結果をお伝えいたします。まず、お義父様のお名前は加藤真澄さんでよろしいでしょうか。死因は右頚部動脈出血によるショック死です。死亡推定時刻は朝の7時。ただし、この時刻を境に前後四時間はズレがあるかもしれません。」
朝七時を境に前後四時間? すると五時から? 学ははっきりさせるため、監察医に尋ねた。
「前後四時間というと朝五時から九時の四時間ですか?」
「おそらくその四時間に亡くなったと思われます。」
「朝の五時前には生きていたんですね?」
「はい。」
「その日、私は朝四時に起きて支度をし、五時前に家を出ているんですよ。私が出掛ける前にはお義父さんは生きていたんですね。」
学は、朝、出掛けるのを部屋の中で息を潜めてじっとしていた義父の姿を想像し愕然とした。私が家を出て行くのを待って、義父は命を絶ったのだ。もし、私が義父の異変に気付き、部屋のドアを開けることが出来たならば、義父は命を絶たずに済んだかもしれなかったと思うと学はやり切れなかった。また、義父が学の存在を死ぬ間際に意識していたことも学の想像を刺激した。学に止めてほしかったのかもしれない。もしくは、学に異変を気付かれ、未遂に終わらせたくなかったのかもしれない。学は、一枚のドアを隔てて義父が思ったであろうことを想像を巡らせているうちに、これまでの自分の立ち振る舞いでは絶対に早朝、義父の部屋のドアを開けるはずがないが、前の日からの義父の言動の節々から鋭く虫の知らせを感じ取り、もしやの疑念からそっと和室のドアを開けていたならば義父を救えたかもしれないと考えた。しかし、実際はその行動が取れず、義父は命を絶った。いや、救える手段があったはずだと念頭でシュミレーションしてみたが、あの状況では学は義父に話し掛けることもできなかった。自分では無理なんだよなと諦めに陥り、悔しくて、何も出来なかったことが情けなくて、自然と涙が胸の奥からこみ上げてきた。目の前で涙を流す学を見て、監察医はしばらく次の言葉を待った。学が少し落ち着いたところを見て取ってから、最後にぽつりと言った。
「私からは以上です。」
監察医の隣にいた刑事はその後、学に向かって、
「何か、ご質問はありますか?」
と話し掛けた。学は、
「特にありません。」
と答えた。その後、刑事は、
「それでは、この後、お義父様のご遺体の運び出しになりますが、業者に連絡していますでしょうか?」
学は、幾分、気持ちを落ち着かせた後、
「葬儀屋さんが来て運んでくれます。」
と答えた。
「そうですか。この後、業者に運び出しになることを伝えてください。後はあちらも分っているでしょうから。」
刑事は、そう伝えると監察医と一緒に席を立ち、学が部屋を出るのを待った。学は、席を立つと部屋を出て受付へ向かった。

受付では、葬儀屋の引田が待っていた。
「お疲れ様でございました。さあ、お席にお座りください。」
学は促されるまま、席に着いた後、先ほど刑事から言われたことを引田に伝えた。
「分かりました。早速、車内に運び込みます。その後、ご自宅に運びますか?」
引田からそう言われると、学は真美の姿を思い浮かべ、今の真美にこれ以上の刺激は強過ぎると思った。
「今、自宅に運び込むのは妻にとっては耐えられないと思います。自宅以外で運べるところはあるのでしょうか?」
「弊社に霊安室があります。そこをご利用なさいますか?」
「どこにあるのでしょうか?」
「西日暮里にあります。そこにまずご遺体を移動しまして葬儀まで保管することができます。」
「保管は何日くらいでしょうか?」
「保管自体は、ご遺体が損傷しないよう低温で大切に管理します。お日にちは葬儀の日程次第ですね。」
「分かりました。それでお願いいたします。」
「ありがとうございます。それでは早速、ご遺体を運び出します。弊社に着きましたら、葬儀の日程について打ち合わせいたしましょう。」
話を終えると、引田は席を立ち、学は一人、席に残った。学は、携帯電話を取り出し、真美にLINEでメッセージを送った。
(お義父さんを引き取りました。葬儀屋さんに預けます。これから西日暮里に運びます。私も一緒に向かいます。)

すぐに真美から返信が届いた。
(ありがとう。)
「お待たせしました。車にご移動をお願いいたします。」
引田が現れ、そう言った。引田に案内され、学は警察署の建物を出て、駐車場に向かった。引田が向かった先には黒い霊柩車が止まっていた。いつの間にか雨が降り出していた。車両の前で引田が学に言葉を掛けた。
「お義父様をご覧になられますか?」
「いいえ。」
学が座席に着くと車は発進した。警察署の敷地を出る時、出口辺りに人影が見えた。雨の中、傘も差さずに立っていた。車両とすれ違う際、その人影が深々とお辞儀をするのが見えた。刑事さんだ、わざわざ雨の中、見送りに来てくれたんだ。学は刑事さんがしてくれた行為にただただ感謝するだけだった。また、涙がこみ上げてきた。車は三軒茶屋から首都高に入った。辺りはすっかり夜になっていて、雨が降り続けていた。霊柩車の車内は冷たい空気が流れていた。棺は車内の中央に占め、その脇に学が座る座席が配置されていた。前に引田と運転手が並んで座っており、皆、無言で前を向いていた。学は涙こそ止んだがただただ疲れていた。静かに車窓から外の景色を眺めていると気持ちが落ち着いた。あっ、東京タワーだ、こんなに近くを通るんだ、学はライトアップされ、真っ赤に照らし出された巨大な電波塔をじっと見詰めていた。雨に濡れた窓越しに見た東京タワーは赤く、輪郭がぼやけていた。

車は首都高から降りるとしばらく街中を走った後、一階が駐車場になったビルに入って行った。車が停車すると、引田が学に声を掛けた。
「着きました。どうぞ、車から降りて建物の中にお入りください。」
学は引田に促されるまま、車内から降り、建物の入り口に向かった。自動ドアを抜けると二階に上がり、部屋に通された。
「ご遺体を運び入れますのでしばらくお待ちください。」
そう言って、引田は部屋を出て行った。しばらくすると引田が上がってきた。
「ご遺体を隣のお部屋に移動させました。ご確認ください。」
学は引田に促され、隣の部屋に移動した。部屋の中央に義父の遺体が寝かされ、顔には白い布が掛かっていた。学はしばらく義父の遺体の前に立っていた。どのくらいだろう、疲労感からぼうっとしていた。その時、ふと部屋の隅に何かが置かれているのが目に入った。学が近付いてみると血の付いた包丁や銀縁の眼鏡だった。しばらくそれらを見入っていると後ろで引田の声がした。
「ご確認の方は、済みましたでしょうか?」
「はい、もう大丈夫です。ところで引田さん、これは何ですか?」
「こちらはお義父様のご遺体を運び出す時、警察署から渡されたものです。いかがなさいますか? お持ち帰りになりますか?」
学は、これらを持ち帰った時の真美の顔を思い浮かべた。見せてはいけない。
「引田さん、これらは処分していただけますでしょうか?」
「はい、分かりました。こちらで処分いたします。では、先ほどのお部屋で葬儀について打ち合わせをしましょう。」
引田に促されて学は部屋を出た。葬儀の打ち合わせでは、まず基本プランを示された。さらに様々なオプションがあり、料金に加算される。基本プランで車一台購入できる金額だった。最初は当惑したが、義父の最期を弔うものなので背に腹はかえられぬと基本プランに必要なオプションを選択した。終わった頃には、学はどっと疲れが出ていた。学は真美にLINEで決まったことを伝えた。
(通夜は明後日。告別式はその翌日。これからお義父さんが生前お世話になった人に連絡だね。)
「そうだ、昨日、警察署で渡されたんだけど、見てよ。お義父さんが書いたものだよ。」
手帳を破いた一片の紙切れに義父の筆跡で次のようなことが書かれていた。「亡くなったら検体にしてほしい」、「葬儀は行わない」等、希望が挙げられていた。学はメモを見せ、どう思うか真美に尋ねた。
「ずいぶん、勝手なことが書かれているわね。検体にするものですか。」
「検体も善良な行為だと思うけれど、臓器を切除された後、遺族に返される時には、傷跡がくっきり残っていて、それを見て後悔するケースが多いそうだよ。」
「絶対、提供しない。」
「葬式は密葬を希望していたのかね?」
「あの人、自分のことしか考えていない。葬式しない訳にいかないじゃない。生前、お世話になった人に伝えて盛大にやってやりましょう。」
最期は身勝手に振る舞った父親の希望を拒み、亡骸を丁重に葬ることで遺族としての威厳を保ちたい、健気に振る舞う真美の底意地が垣間見れた。葬式までの段取りに目途が付くと学も真美も肝が据わりこの先、突然の出来事にも踏ん切る覚悟が芽生えてきていた。まもなく引田が訪れ、葬儀の最終打合せをすることになっていた。

引田という男は、専門職なので当然なのだが、葬儀までの手順を心得ていて遺族が段取りに際して、不安を漏らすと淀みなく受け答えることができていた。遺族の琴線に触れるような事柄には大げさに受け応えするところがあり、相手の心情を心得ているぞとばかりに演じているのが見て取れて、鼻に付くところがあった。ただ、今回、葬儀までの水先案内人である彼には、是が非でも頼らざるを得なかった。打ち合わせで迎えた時には、妙子が結婚式の際に引き出物として実家に渡したティーファニーのティーカップでお茶を差し出した。学は、義父の弔いを巡って涙腺が緩くなっていた。家にある最上の茶器で客人をもてなす行為の大切さをしみじみと感じ入ると、自然と涙がこみ上げてきた。
「引田さんのプランニングは承知いたしました。ただ、一点、告別式後の会食のお店は南台のお店で決まりですか?」
「ええ、大人数が一堂に会するお店が都内であまりなくて、ご尊父様を荼毘に付された後、ご移動される場所としてもよいかと思われます。」
「移動先として候補に挙がったことは分かりました。ただ、店主が前の勤務先の保護者なんですよ。」
「大変、失礼いたしました。安永様は小学校の先生でしたね。そうしますと、お部屋が分かれてしまいますが、お寺でお部屋をお借りするしかないですがよろしいでしょうか。」
「そうしていただければ、安心です。」
葬儀に手慣れた引田でも、遺族の事情までは計り知れたものではない。これまで、言われるがままに動いていただけに、ようやく学も意見が言えてほっとした。
引田は、打ち合わせを済ますと、お寺にも確認することがあると言い残して帰って行った。


「やっぱり、お焼香をあげに来たお客様に見えるところにいなきゃ駄目よ。」
「だったら、本殿の先端でお辞儀することになるね。」
通夜は、焼香台の先の一段上がったところに学と真美が並んで座り、弔門客のお辞儀する度に二人揃って腰を深々と曲げて応じた。本殿から弔門客を見下ろす形になってしまうので、失礼に当たらぬよう一人一人に丁寧にお辞儀をした。途中、弔門客が途切れる間があり、石畳の狭い参道を見渡すと引田がひっきりなしに動き回り、行き届かない所がないかチェックをしていた。時々、従業員や関連業者に対して命令口調で指示する姿が見られ、客の前では出さない引田の別の一面を見ることができた。また、学の上司や同僚の姿も見られ、わざわざ遠くまで足を運んでもらい、ただただ感謝するばかりだった。学ら家族は通夜が終わり、翌日の告別式に備え、早々に自宅に引き上げた。通夜の間も学に助言し、頼もしくもあった真美が変調をきたしたのはその晩だった。

義父の訃報を知り、義父が恋焦がれた女性から返信の手紙が届いていた。
「突然のことで大変、驚いています。これまで仲良くしてくださったこと、忘れません。」
と書き綴ってあった。
「お義父さん、この人と結婚していたら、こうはならなかったかな?」
「さぁ、最期は誰も寄せ付けなかったから。どうかなぁ。」
夫婦の間柄で対等に話ができる相手がいれば、自分の弱みもさらけ出すことができたのかもしれない。まさに学と真美との関係で、義父の突然の死で急な対応に追われることが続いたが、お互い腹を開いて話をし、何が正しいかを確認し合ってきていた。学と真美との出会いは見合いだった。母親同士が大学時代の友人だったことから、一度、二人を会わせてみようと場が設けられた。学も見合いと聞いて最初は抵抗があったが、二十代後半にもなって異性との付き合いもないこれまでの半生を振り返り、この機会を逃せば、この先、二度とチャンスが無くなるのではと怖れた。また、この頃、「二十代には三度、結婚のチャンスがあり、それを逃すと後が難しい」というテレビだか雑誌の言葉を知り、見合いのチャンスを逃すと損をするのではという心理が働き、話に乗った。その後、結婚し子供ができ、今に至っている。

通夜を終え、子供を寝かし付けた後、真美がこんなことを話してきた。
「今朝、翔太がね、『おじいちゃんが赤くなっていた。』と崇史に話すのを聞いてね、心配になってきちゃった。」
「翔太がそんなことを話していたのか。おじいちゃんが救急隊に運ばれるところをばっちり見られちゃったもんな。」
「その時、救急隊がわざわざ部屋で見付かった包丁を見せに来てね。私は必死だったから後ろの翔太の目に触れさせないように遮ることが出来なかったんだよね。」
「翔太はその包丁を見ていたんじゃないかと思っているのね。それも仕方ないよ。状況が状況だからね。」
「そうなんだけれど、翔太はおじいちゃんが自殺したことを勘付いているんじゃないかと思ったのよ。」
「おじいちゃんが真っ赤になって運ばれて、部屋から見付かった包丁で自殺をしたんじゃないかって? だって翔太は四歳だよ。それはないよ。」
「そうだといいんだけれど。」
「だって、子供たちにはおじいちゃんは血を吐いて亡くなったって話しているんだろ?」
「そうなんだけれどね。その時、心臓発作が起きたことにしている…」
「子供たちには、そう言い聞かせるしかないんだよ。」
「そうだよね。ただ、翔太がおじいちゃんが真っ赤だったのを見たことが今後、どんな影響を及ぼすか心配なんだよね。」
「じゃあ、調べようよ。『親族に自殺者が出た時の家族の心的ストレス』とかで。」
「分かった。今、調べてみる。」

真美がスマートフォンで早速、調べ始めた。
「うーん…心的ストレスが掛かった場合、大人だとカウンセリングを受けるべきだと書いているけれど、子供だとどうなんだろう?」
「カウンセリングって、私もしたことがあるけれど、いろいろ聞き出すでしょ。翔太がまだはっきり意識していないこともカウンセリングするうちに自覚する怖れがあるね。これは専門家に聞かないと分からないよ。」
「そうだよね。自殺電話相談だよね、今からでも繋がる。うーん、駄目だなぁ、話し中になる。」
「深夜が一番、人が不安になる時間なんだよ。明日にしてみれば?」
「ああ、翔ちゃんに申し訳ないことしたなぁ。あの時、『一階に降りて来るなぁ』と言っておけば良かったのに。」
「無理だって、そんな状況じゃないよ。」
「でも、翔ちゃんは見ちゃったんだよね。心的影響が心配だわ。」
「もう遅いから明日にしよう。まずは告別式があるからそれを終えてから相談しよう。」
学と真美は寝室に向かい、それぞれの布団に入った。学が真美の布団を見ると布団に腹ばいになり、スマホの画面を見ながら何かを調べている真美の姿が見えた。
翌日は、朝八時には告別式の会場にいなければいけなったので慌ただしく準備をした。翔太の様子を見ると親の心配を他所に普段通りの様子で、用意された式服を見付けるとさっさと着替えを済ませた。他の兄弟がだらだらと準備に取り掛かっているところと比べてみても義父が真っ赤になっていたのを口にした以外は、次男は普通だった。その一方で真美はあまり寝ていないようで学が起きた時には居間におり、子供たちが告別式で着る服の準備をしていた。

お寺に着き、告別式の準備がされている本堂に向かった。本堂では正面に義父の生前の写真が飾られ周りにはたくさんの花束が飾られていた。写真の前に棺桶が置かれていた。学に気が付いた引田が声を掛けてきた。
「おはようございます。昨日はお疲れ様でございました。」
「おはようございます。引田さんも昨日は何から何まで準備して頂きありがとうございました。」
「いえいえ、仕事ですから、当たり前のことをしたまでです。本日の準備も間もなく終わります。お義父様のお顔をご覧になられましたか?」
「いいえ、今、着いたばかりですから。」
「あちら、祭壇の前にご用意させていただいております。さあ、ご覧になってください。」
引田に促されて学らは義父が納められている棺へと移動した。棺は義父の顔のところだけ小窓がついていた。小窓は開かれ、上から覗き込めるようになっていた。
「さあ、こちらです。衣装を着て旅立ちの準備ができております。さあ、お近くに来てご覧ください。」
学は棺に近付き、中を覗き込んだ。義父は、静かに眠るように口を閉じ、目をつむっていた。学はようやく義父の顔を見ることができた。学の後に真美が続いた。真美は、実の父親の顔を一瞥し、「僕も」とせがむ子供たちを代わる代わる抱っこして義父の顔を見せた。全員が義父の顔を見た後、学や子供たちを連れて控室へと向かった。
「パパ、ちょっといいかな?」
控室に向かう途中に学は真美に呼び止められた。
「翔太がここに居たくないって言うんだよね。私達、告別式に参加しない。」
「えっ、どういうこと? これから始まるんだよ。」
「おじいちゃんの顔を見た後、翔太に聞いたんだ。ここに居たいかって。そしたら居たくないって言うんだよね。だったら無理しなくていいよって言ってあげた。今、すぐここから出ようって言ってあげたんだ。」
「えっ、今から出て行っちゃうの? 家族がいなければいけないんだよ。」
「あなたがいるでしょ。私達は告別式に参加しない。」
「私、一人で皆さんを迎えるの?」
「できるでしょ。妙子もいるんだし、もう、行くね。」
「ちょっと待ってよ。急過ぎるよ。なんで今なの!」
「だって、翔太が居たくないって言ったんだよ。この場所にいることで翔太に何かあったらどうするの?」
「何かあったらと言うけれど、翔太にここに居たいって聞くこと自体どうなのかなと思うけれどね。」
「じゃあ、居させるの?」
真美がだんだん感情を昂らせていくのが見て取れた。学はこの場で言い争っても仕方がないので真美の感情を逆なでしないようにしようと考えた。
「分かった。私がこの場に残るから子供たちを連れて出てくれる?」
「よろしくね。」
「ただ、私から電話したら出てよ。あと、子供たちは子供たちの人生があるから、あなたの思いだけで変な真似を起こさなさないでくれよ。」
「分かっているわよ。」
学は真美がこの後、絶望のあまり子供たちと一緒に心中をしたらどうしようかと頭によぎり、真美に釘を刺しておいた。真美は子供たちを連れて玄関に向かった。告別式を中止にする訳にもいかず、真美たちはこれからどこに行こうとしているか気が気でなかったが、今は、お義父さんを立派に送り出すことが先決だと学は自分に言い聞かせ、告別式に臨んだ。

告別式の途中に何度か真美に連絡をしたが、繋がらなかった。妹の妙子からも連絡を入れてもらったが同じだった。この期に及んで家族にも先立たれ、自分だけが一人残されることになったらどうしようかと思いながら告別式が進んでいった。式が終わり、学が家に戻ってしばらくしてから真美は戻って来た。学は、安堵した。子供たちは、手にそれぞれ好きなおもちゃを買ってもらっていた。
「心配したよ。繋がらなくてどうしていたの?」
「和ちゃんがおもちゃが欲しいって言うから新宿に行って京王百貨店で買い物をしたのよ。そうしたら、レジしてくれた店員さんが好い人でね。和ちゃんを見てしっかりしたお子さんねって褒めてくださったの。その時、店員さんの名札を見たら『安永』って書いてあったの。同じ名字の人に会うなんてことがある? 神様が見ているのよ。」
「へえ、同じ名字の人に会うなんて珍しいね。神様が関係しているのか分からないけれどね。」
「やだあ、私は神様はいるって思ったよ。」
真美が神様を持ち出すなんてことはこれまでなかった。ただ、今日の告別式直前に子供たちを連れて抜け出したり、百貨店で出会った名字が同じ店員がいたからといって神様の仕業だと言ったりして真美は気が振れてしまったのではと学は思った。

翌日も真美はおかしかった。通りで毎日、焼き芋を露店販売している若者を神様だと言い出した。焼き芋を売りながら地域の人を守っていると説明していた。これまで、芋売りの若者をあの人、夏でも焼き芋を売っているよ、誰が買うのかねなどと懐疑的な目で見ていたのが、急にあの人は素晴らしいと言い出すので学には訳が分からなかった。さらに、真美は家にあるミカンをあの人に今すぐ渡してきてと言い出した。真美があまりに急かせるので学は仕方なくミカンを一つ手に持って行かされる羽目になった。芋売りの若者はいつもいる場所で客と立ち話をしていた。学は話が止んだらミカンを渡そうと思ったが、話がいつまで経っても終わらず、待たねばならなかった。待っているうちに、やっぱり真美はおかしなことを言っていて、これはまずいなと思った。まずは、真美を何とかしなければいけないと思い、ミカンを持ったまま、自宅に引き返した。戻ると真美と息子達、義父の遺品整理を手伝いに来てくれた義妹家族がいた。まさか真美本人に言動がおかしいので病院に行こうとは言えない。義妹にも真美がいる前で相談もできない。家の中では誰にも相談できないと思った。その時、ふと役所で心の相談窓口があるはずだと思い、まずは行ってみようと思った。ミカンは真美に気付かれないように元あった場所に戻した。学は真美と妙子のいる一階のリビングに行き、所用があって役所に行って来ることを伝え、家を出た。役所に着いたもののカウンセラーが常駐しているのではなく、住んでいる地域に近い診療所を紹介してくれると伝えられ、学は当てが外れたと思った。どうすればよいか迷い、実家に相談の電話を入れた。母親が電話に出た。
「学、ちょっとは落ち着いた?」
「それが…相談なんだけれど真美の様子がおかしいんだ。昨日、告別式の時も急に出て行ってしまうし、今朝は商店街で毎日、焼き芋を売っているお兄さんにあの人は神様だから、ミカンを持って行ってと言うんだよ。」
「それはちょっと言うこと、おかしいかもね。」
「すぐに医者に診てもらった方が良いと思っているのだけれどどうかな?」
「真美さんに行くように誘ってみれば?」
「でも真美は自分がおかしくなっていると思っていないんだよ。勧めても行くはずないよ。」
「そりゃあ、そうだわ。妹の妙子さんが家に来ているんでしょ? 私より妹さんの方が真美さんの様子を分かっているでしょ?」
「そうなんだけれど、普通に家で会話しているんだよね? 様子がおかしいことに気付いていないようなんだ。」
「それは困ったね。じゃあ、お医者さんに診てもらう方が良いわね。」
「やっぱり医者に相談だよね。」
「あなたの住んでいる近くにもお医者さんはあるはずよ。」
「分かっている。幾つか調べていてまだ連絡を取っていないんだ。」
「待って、お父さんが今、調べたら三軒茶屋診療クリニックという心療内科があるからどうかなって。スマホで調べればわかるでしょ?」
「ありがとう。そこに相談してみる。」
学は電話を終えるとスマートフォンで検索してみた。すぐにヒットした。三軒茶屋の駅から近いことが分かった。電話を掛けたが応答がない。仕方がないので行って窓口で相談できるか訊いてみようと思った。真美が精神的におかしくなってしまったので何より真美の回復が先決だ。学はふと、小説『智恵子抄』で主人公の妻が母親を亡くしたショックで精神がおかしくなり、ついには衰弱し亡くなる話を思い出した。学は高校生ぐらいに読み、どうしてすぐに医療にかからないのだと主人公の、妻への関わり方に腹立たしく感じていたが、今、学自身が似たような状況となり、妻が精神的に不安定になった時期に素早く行動に移すことが大事なんだと強く思った。
三軒茶屋診療クリニックに着くと、患者でいっぱいだった。受付で学が今日、予約していないが受診できるか尋ねた。すると予約しても一週間後だと言われた。待っていられないと思い、診療所を出て、学は世田谷警察署に向かった。警察署だったら、似たような案件で相談を受けているかもしれないと思った。

学が世田谷警察署に来るのは数日振りだった。今回は「生活安全課」を尋ねた。受付を済ませてしばらくすると二階の相談室に案内された。相談室に入ると初老の男性が迎えてくれた。学はこれまでの経緯を説明すると、役所でしてくれたように診療所を紹介してくれた。数日、待っていられる状況ではないと伝えると、今すぐ受診できるか電話を掛けてくれた。すると十六時の受診前ならすぐに診ると返事があった。学は取り次いでくれた職員に礼を言い、すぐに自宅に向かった。学はどうすれば真美を診療所に連れて行けるか考えた。真美は根っからの精神科嫌いである。若い頃、看護師をしていて、精神科は治療が一筋縄ではいかないと毛嫌いしていた。そんな真美を無理やり引っ張ろうとしたところで拒まれるだろう。しかし手をこまねいている訳にはいかない。学は真美が自分から診療所に行く方法がないか考えた。真美が抱えている不安が何かを考えた。義父の対応に気丈に振る舞ってきた真美が激しく動揺した場面をこれまでの関わりから見付け出そうとした。学が最も印象に残ったのは翔太への心理的な影響を憂えた時だった。真美は申し訳ないと言って後悔する素振りを激しく見せていた。翔太を助けたいという真美の気持ちに寄り添えれば診療所に連れて行けるはずだと思った。連れて行くにしても診察してくれる時間に間に合うためには家に来てくれている真美の妹の夫の優に車を出してもらわないと行けそうにない。そう思って優にメールをした。すぐに返事があり、何時でも車を出すと約束してくれた。

学は自宅に戻ると真美を探した。二階の居間で話をしていた。
「翔太の件で相談できる診療所を見付けたよ。今、直ぐなら診療を受けられると言ってくれたんだ。子供達は妙子さんに預けて一緒に来てよ。」
「い、今? これから家事をしなければいけないんだけれど。」
「そんなこと、言っている場合じゃないよ。」
「翔太も連れて行くの?」
「いや、あなたと私とで行く。優さんに車を出してもらう。」
「優さんに今からお願いするの?」
「もう頼んである。」
学は真美を家の外に連れ出すことが出来た。優の車の後部座席に真美を座らせると学は助手席に座って診療所までの道案内をした。
「優さん、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ございません。お願いいたします。」
「大丈夫ですよ。車を出すくらいなら。じゃあ、出発しますね。」
車が動き始めた。学はひとまず、真美を連れ出すことができて安堵した。ここで次の手に出る必要があった。真美が診療所で受診する辻褄を合せなければならない。
「今回、お義父さんが救急車で運び出されるところを見た真美と翔太の精神的ケアが目的なんだ。まず、真美から診てもらうよ。」
「何で私なの? 私は診てもらわなくてもいいよ。翔太の相談というから付いてきたのに私は精神科が大嫌いなの知っているでしょ。行かない。」
「何、言ってんだよ。翔太を救うことになるんだよ。真美と翔太が救急車で運ばれるお義父さんを見たんでしょ。どんな状況だったか説明できるのはあなたしかいないんだよ。翔太がお義父さんの姿を見てどんな影響があったら心配なのかあなたが医者に話すのが一番伝わるはずだよ。そうすれば、適切な治療を受けられるんだ。」
「そうかなぁ。」
「そうだよ。お医者さんだからあったことをそのまま話せばいいんだよ。」
「分かった。行くよ。」
学は自分でも強い口調で言ってしまったなと思ったが、この機会を逃してはなるものかと態度を崩さなかった。真美は、黙って窓の外を眺めていた。診療所が見えてきた。

学は優に礼を言い、真美と一緒に車から降りた。診療所は時間前だったため、患者は誰もいなくて静かだった。学が窓口に行くとすぐに医者に取り次いでくれた。診察室には真美に続いて学も入った。
「安永さん、私も詳しくは聴いていないんでね、何があったのか話してもらえますか?」
「どこから話せばいいのですか?」
「まず何があったのか、別に話しにくいことまで話さなくてもいいですから、時系列で話してください。」
「私が話した方が良いのかな?」
「どちらでも良いですよ。」
学がまごついていると真美から話し始めた。
「一月二十九日の朝、父の部屋を覗くと・・・」
真美は幾分こわばった表情でゆっくりと話した。真美は義父が自殺したこと、すぐに救急車を呼んだこと、救急隊員が駆け付けた時に翔太がその場を見てしまったことを話した。そして、ネットで親族に自殺者が出た時の心理的影響を調べて不安になったことを話した。
「翔太の治療のために、あれこれ聞き出すことが逆に翔太の曖昧だった記憶をはっきりさせてしまうのではないかと心配もあります。」
話の途中で学が自分の考えを話した。
「それは可能性がありますね。子供は大丈夫ですよ。時間が経てば忘れちゃいます。それより奥さんは大丈夫でしたか?」
「私は大丈夫です。」
「いや、心配しているんだよ。」
学が口を挟み、医者の前では真美が平静を装っていて、一見、どこにも異常がないように見えた。そこで試しに神様と言い張る話を振ってみた。
「商店街で焼き芋売りのお兄さんは実は神様なんでしょ。」
「そう。あの人は神様。神様は見ている。」
「京王百貨店のレジをしてくれた人が同姓だったのは?」
「それも神様。学さんも神様。」
「わ、私が神様なの?」
「そう。神様。」
「私は違うよ。」
「奥さん、今の話を聞いているとどう聞いても旦那さんの方がまともですよ。話を聞いているとね、奥さん、寝てないでしょ。ちょっと休んで心を静めた方が良いですよ。」
「バタバタした日が続いたけれど告別式も終わって少し落ち着いたから、寝て心を落ち着けよう。」
「私だって大変だったんだよ。お父さんが亡くなっちゃって・・・」
真美は疲れ果てたのか周りを気にせず泣き出した。
「そうだよね。大変だったよね。これからも一緒に頑張ろうね。」
「安永さん、しっかり寝てくださいね。心を落ち着かせる薬を出しておきます。飲むと頭がぼうっとなるかもしれませんが出した分は飲み続けてください。」
診療所を出た時は辺りはすっかり暗くなっていた。調剤薬局で処方箋を出し、空いている席に並んで座った。
「翔ちゃん、本当に大丈夫かな?」
「大丈夫だって。お医者さんが言ってくれたんだから。」
学が真美の方を見ると、これまでの一連の対応で神経が昂ぶっているのか目がギラギラしていた。普段、髪留めでまとめている真っ黒な髪が両肩に垂れていて、見たこともない妖艶さが漂っていた。待合室に流されているテレビモニターには速報でサッカー日本代表監督の解任が報道されていた。就任前のチームで八百長疑惑があり、逮捕状が出たためだった。

処方された薬を受け取り、学と真美は自宅に戻った。真美は妙子の勧めですぐに風呂に入るとすぐに寝室で眠ってしまった。いつもなら子供と一緒に風呂に入り、子供を寝かし付けてから真美は寝ていたので学はびっくりした。しかし、この数日、ろくに眠れず、気を張って過ごしていたんだと察し、この人を守ってあげなければいけないと思った。翌朝遅くに真美は目を覚ました。前の日までのギラギラした目ではなくなっていた。それとなく焼き芋売りの若者は神様なのか聞くと、何、馬鹿なことを言っているのとさらりとかわされた。ずいぶんおかしなことを言っていて、私はミカンを持たされて芋売りの若者に渡しに行かされたんだよと話すとその時の記憶がないと言っていた。その後も話をしても以前の真美に戻っていたので学は安心した。あのまま幻覚を見たままでいたならば、現実と幻覚を混合させてしまい、さらに病状を悪化させてしまっていたのではないかと学は思った。神だと言っているのを聞いている人が少ないうちに現実に引き戻せるよう医療に繋げることは大切なんだと思った。


「お義父さんの部屋の畳を取り換えようか?」
「ああ、そうしてくれると助かる。」
学はあの日、母親と一緒に和室に入り、家具に飛び散った汚れを拭き取っていたが、畳に染み込んだ汚れはぬぐい切ることができなかった。汚れのある畳一枚は取り換えなければならなかった。
「住宅メーカーにお願いする?」
「高く付くから畳屋でいいよ。商店街に一軒あるよ。場所を教えるね。」
真美が教えてくれた場所に行くと、小さなマンションの一階にガラス張りの引き戸があり、「吉村畳店」と書いてあった。普段、あまり利用しないため、こんな所にお店があったのだと意外な発見だった。中に入ると作業着を着た学よりも年齢の上の男がいた。どこかで見た顔だと思ったら夕方、近所の公園に大きな犬を連れて散歩している人だった。学は見掛けたことがあるだけで、別に親しい間柄でもない。
「畳の取り換えできますか?」
「はい。どんな種類の畳でしょうか?」
「畳の種類ですか? 和室にあるもので、種類があるんですか?」
「今、いろんな種類の畳があって、琉球畳なんて人気で従来の畳と違って縁がないのもあるんですよ。」
「琉球畳ですか? 家のは、縁があったように思えますが?」
「そうですか。あと、取り換えるって言っても畳表の張り替えで済むものもありますし、芯材が傷んでいたら総とっかえになりますね。」
「どっちなんでしょうか?」
「一度、見せてもらってもいいですか? ご自宅は近くですか?」
「はい、直ぐです。」
「じゃあ、見に行きましょう。」
畳屋は早速、学の家に来て取り換えの必要な畳を調べた。
「この汚れですね。これだと畳表だけで済みますね。この畳はもしかして。」
と言った後、畳の縁に携帯した金具を差し込み、畳を剥がした。
「やっぱりそうだ、今、この手の畳が増えていましてね。フローリング畳っていうので、最近の住宅に増えているんですよ。」
「畳とは違うのですか?」
「畳ではないですね。畳風になりますね。」
その時、学は義父の命を絶つ姿を想像した。本人は、最期は畳の上で能楽師のように刃物を右首に当て命を絶ったつもりであったが、実際は、畳ではなかったのだ。人間、雰囲気が整えば、躊躇なく事を運べてしまうものだと思った。死の道しかないなんて決してないのだ。人間、追い詰められると自分で間口をせばめて最期を作り上げてしまうものなんだと思った。


「告別式も済んだから、そろそろ仕事に戻ろうと思う。」
「そうね、後、何かしておかなければいけないことがなければ、仕事もしないとね。」
学の母親が真美の心労を気遣ってくれて泊まりで家事の手伝いに来てくれていた。
「香典だけ、届けてくれた方にはお返しがあるけれど、それは真美や妙子さんがしてくれることになっている。埋葬許可書をお寺に届け忘れていたからそれを渡しに行けば終わりかな。」
「お疲れ様。いろいろ大変だったわね。」
学は母親だけに洗濯物干しを任せる訳にはいかず、手伝いながら、一連の出来事を思い返していた。
「お義父さんは、最期はもったいなかったな。だって、会社に定年まで勤めていたんだよ。私から言わせれば、立派な人生を歩んでいたと思うよ。」
「そうだよ。もったいない。早まらなければ良かったのに。」
「辛かったのは分かるよ。でも、一人で抱え込み過ぎだった。たしかに、弁護士さんに何度も相談して、本人なりに助けを求めていたけれど、真美や私といった子供たちには迷惑を掛けられないつもりだったのか、自分で何とかしようとしていたんだよね。」
「真澄さんは、そういうところがあったわね。」
「有難かったし、頼りにしていたけれど、最期は家族に迷惑を掛けたね。」
「迷惑って?」
「だって、自殺されちゃうと残された家族に大変な負担を強いらせることになるんだよ。今回、家族がぶっ壊れるかと思ったよ。突然、彗星が私ら家族の元に突っ込んできたような衝撃だったよ。」
学は母親に愚痴とも取り留めもない苦労話を続けた。

学も仕事に復帰し日常生活が戻ってきた。毎日の生活の忙しさに追われていると悲しかった出来事を一時的に忘れることが出来た。
「あの公園、完成したかな?」
学は公園の完成を心待ちにしていた。
「もう完成したかもね。」
真美がそう言った後、近くなので家族全員で見に行こうという話になった。子供達を連れて公園まで来ると工事用のバリケードが取り払われ、入り口には公園名を示す表示がされていた。そこが図書館だった時には建物が並び大きく迂回するルートを通らないとその先の大きな区立公園や経堂に行けなかったが抜け道になっていた。
「きれいな公園で気持ちがいいね。」
学が真美に話し掛けると真美は笑顔で答えた。
「抜け道になって便利になるね。」
久々の真美の笑顔だった。希望、前向きに将来に向かって歩きだす突破口を見出したようで嬉しかった。学ら家族にとって塞ぎ込んでいた日々に光明を照らす出来事だった。これこそ、神様の思し召しだな。神様の、道。神様ロードと言っても良いのでは?
義父の死によって一時、家族がばらばらになるのではないかと感じたが、家族を守りたいという思いが、真美が子供たちを守り、学が真美の窮地を救い出す形で結実した。困難に立ち向かった先にあったのが日常の生活だった。家族が毎朝、顔を合わせ、互いの安否など気にせずとも暮らしていける生活は素晴らしいことだ。学は日常生活を謳歌したいと思った。

(完)