涙が出てきた。止められない。またメッセージが入った。
阿蘇アキト「神様ロード」
(今は、帰宅中ですか。)
義理の妹の妙子からだった。
向こうから和子に似た女性がやって来た。相手はマスクをしているので本人なのかは判別し兼ねた。ただ擦れ違うとき、じっと見られているなと感じた。呼び止めようかと迷ったが三男の送りが優先だと気持ちを切り替えた。三男を送り届けるとすぐに引き返した。まだそんなに先に行っていないはずだ。商店街に着くともと来た道を引き返した。しばらく歩くとコンビニの前で先ほどの女性が買い物を済ませて出てくるのが見えた。駅に向かって歩いて行くと見え、哲史も後を付けた。二人の距離はみるみる狭まった。あと少しで並ぶほどに近付いたが話し掛けて良いものか迷った。まだ相手が和子と決まった訳ではないのだ。そう思うと追い付く気にもならず、一定の距離を保って歩き続けた。駅のすぐそばの踏み切りまで来た時、遮断機が鳴り始めた。すると前を歩いていた女性が駆け足で踏み切りを渡り切った。哲史もそれに合わせて駆け込めば渡り切れたが、電車の通過待ちで距離を開けてみても良いのではと思い、手前で立ち止まった。やがて遮断機が下り、目の前を電車が通過した。ようやく遮断機が開き、前を見ると女性の姿は消えていた。
阿蘇アキト「夕占」
サケを飼育し放流まで夢中になって取り組み、充実した時間を過ごすことができた。また、原への恋慕の思いもサケの飼育を通して叶えたいと下心を抱いていたが、原が生き物に疎いことが人づてに分かり、急に気持ちが覚めてしまった。思いを募らせた時には気持ちが落ち着かず、それでいて四十を過ぎて何を思い悩んでいるのかと自責の念が湧いていた。恋煩いとは平常心を乱す厄介事なのかもしれない。期待してしまう自分の浅ましさに自分の弱さを見た。相手を自分の理想に近付け、その幻想に浸っていた身勝手さに自省していた。原は年度の終わりに異動することが決まっていた。職場で顔を会わすことがなくなればやがて忘れていくだろう。
阿蘇アキト「カムバックサーモンをもう一度」
「パパ、もう放流してもいい?」
長男が聞いてきた。
「もういいだろう。よし、じゃあ、始めるよ。」
崇史はビニール袋の封を切り、一気に中身を川に流した。中から水と一緒に小さな群れが川の流れに飛び出した。一匹一匹が力強く尾っぽを振って泳ぎ出した。
「サケさん、元気でね。」
「大きくなって戻って来てね!」
息子たちの呼び掛けが可愛かった。近くの葦の原っぱを猛禽類のチュウヒが翼をⅤの字にしてゆっくり滑空していた。(完)
<p>モニターを凝視しているのかと、相手の顔が見える位置に立つと、目を深く閉じ頭をわずかに傾げた顔が見えた。すやすや寝息も漏れてきた。<p>
阿蘇アキト「デジタル貨幣誕生前夜」
阿蘇アキト「デジタル貨幣誕生前夜」
オッケー!マイニングに成功したよ。
中央演算装置をグラフィック処理を専用にしたものに入れ替えると永野が思ったとおりパソコンの計算速度が高まった。
席に着くと車内であれだけ騒いでいたのに店内ではそれぞれがゲーム機で遊び始めた。おかげで静かになったが、店内でどう静めようか言い方を考えていただけに拍子抜けだった。注文したソーキ蕎麦が出て来るまで隣りの席の哲哉さんと話をした。
阿蘇アキト「デジタル貨幣誕生前夜」
「ゲームをしている時は静かでしょ。」
哲哉さんがにやりと笑った。
崇史は電車に乗り込み、動き出す窓の外を見ているとさらに衝撃が走った。線路脇のバー「セラビ」の店の中から明かりが灯っていた。この店は一年前にマスターが亡くなり閉店したはずだった。高齢になってもカウンターに立ち続け、通の間では伝説になっていた。丁寧な物腰で客の話をよく聞いてくれた。崇史が最後に訪れたのは二年前の冬だった。以前から、高齢のため店を閉める噂が絶えなかったが、店で長年飼っていたフナがいなくなった時には、いよいよだと覚悟した客がたくさんいた。崇史が店を訪ねたのはそんな時期だった。職場の同僚と近くで飲み、その後、もう一軒、ディープなお店があるが行きませんかと崇史から誘った。同僚も終電まで十分時間があるからぜひとも行こうという話になり、男女五人で来店した。
阿蘇アキト「カムバックサーモンをもう一度」
警察署の敷地を出る時、出口辺りに人影が見えた。雨の中、傘も差さずに立っていた。車両とすれ違う際、その人影が深々とお辞儀をするのが見えた。刑事さんだ、わざわざ雨の中、見送りに来てくれたんだ。学は刑事さんがしてくれた行為にただただ感謝するだけだった。また、涙がこみ上げてきた。車は三軒茶屋から首都高に入った。辺りはすっかり夜になっていて、雨が降り続けていた。霊柩車の車内は冷たい空気が流れていた。棺は車内の中央に占め、その脇に学が座る座席が配置されていた。前に引田と運転手が並んで座っており、皆、無言で前を向いていた。学は涙こそ止んだがただただ疲れていた。静かに車窓から外の景色を眺めていると気持ちが落ち着いた。あっ、東京タワーだ、こんなに近くを通るんだ、学はライトアップされ、真っ赤に照らし出された巨大な電波塔をじっと見詰めていた。雨に濡れた窓越しに見た東京タワーは赤く、輪郭がぼやけていた。
阿蘇アキト「神様ロード」
崇史がこの店に誘ったのは親しい同僚に自分のお気に入りの場所を知ってもらいたい気持ちがあったからだった。崇史は得意気になって不意にマスターに話しかけた。
「前にこの店に来た時に水槽で飼っていたフナはどうしたのですか?」
マスターは突然、話し掛けられたが、普段から慣れているのか自分に話が向けられたと察知するとそれまで寡黙だったマスターが話し始めた。
「もうこの年齢だから世話が出来なくなって多摩川に逃がしたんです。」
「そうだったんですね。多摩川で釣って長年飼われていたのを以前、話してくれたので気になりましてね。」
(中略)
崇史は若いマスターに話し掛けた。
「以前、この二人でお店に来たことがあって、その頃、店内に水槽が置かれていてフナが泳いでいました。」
「祖父は掃除ができなくなってフナを手放しました。一緒に多摩川に逃がしに行きましたよ。放す時、長年世話をしてきたので振り向いてくれるかなと思っていたけれど、サァーっと泳いで行ってしまって祖父は残念がっていました。」
その後、山越との話は弾まなかった。崇史はサケの企画で山越の発言にわだかまりがあって、他の話題を振るような余裕がなかった。ほろ酔い紛れに崇史は一連の上町倶楽部の体質に批判を浴びせた。
「今の上町倶楽部は、提案者を助けようとする姿勢がない。反対は唱えるが代案を出そうとしない。提案したら吊し上げるような話し合いを平気でしている。」
「そうですか。水原さんの提案でもったいなかったのは放流した後、解散でしょ。先ほど、マスターが言っていたじゃないですかぁ、飼っていたフナを放流する時、あっという間に行っちゃったんですよね。もったいないですよ。」
「もう上町倶楽部では提案はしません。」
「どうしてですか? 十分に話し合う時間をとれば皆が賛成する企画になるかもしれませんよ。」
山越は子供が三月には卒業で来年度はいないので無責任なことを述べられたものだ。その後、山越といるのも嫌気が出てきて話が深まらず、早々に解散した。
学は更衣室で私服に着替え、玄関で靴を履き替え校門に向かった。門の前では校長が立って登校してくる子供たちに挨拶をして迎えていた。学は校長の前まで来て話した。
「校長先生、ちょっと戻らなければならなくなりまして。」
学は自分の顔の筋肉がひきつるのを感じながら、伝えなければならない言葉を精一杯、絞り出すように伝えた。それを聞いて校長は、
「話は副校長から聞いています。早く奥さんの所に行ってください。」
「はい。」
学は返事をし、校長に一礼をするとすぐに校門を出た。
「僕が思うのは上町倶楽部らしいとか、らしくないは必要ないんじゃないですかね。」
畠中は日山の発言の意図を図りかねたようで、
「野口さんは上町倶楽部らしさを重視しているのに日山さんは、なぜ必要ないとおっしゃられるのですか?」
と再び日山に話を振った。
「名前を出すようで申し上げにくいのですが、だったら『動物ふれあいパーク』だって、平日開催で参加できるお父さんだってほとんどいないですよね。」
日山がそう話すと山越が気まずそうに
「あの企画は確かに私の会社と私とその日、参加できるお父さんでしていますね。」
と認めた。
「だったら上町倶楽部の活動らしくないですよね。」
真美が精神的におかしくなってしまったので何より真美の回復が先決だ。学はふと、小説『智恵子抄』で主人公の妻が母親を亡くしたショックで精神がおかしくなり、ついには衰弱し亡くなる話を思い出した。学は高校生ぐらいに読み、どうしてすぐに医療にかからないのだと主人公の、妻への関わり方に腹立たしく感じていたが、今、学自身が似たような状況となり、妻が精神的に不安定になった時期に素早く行動に移すことが大事なんだと強く思った。
阿蘇アキト「神様ロード」永野は歓楽街に向かう途中、芥川龍之介が恋仲だった女性との縁談を果たせず失意の末に遊郭で童貞を捨てた話を思い出していた。これまで恋愛をせずに仕事に就くことを優勢させてきたが仕事に就いた後も新たに取り組まなければならない課題にぶつかり、さらに禁欲を強いられる強迫観念から逃れられずにいた。将来、生活を安定させる条件として禁欲がどんと居座り、道を外れたら転げ落ちていくのではないかという恐怖感が常に永野の頭にあった。いったいいつになったら生活が安定し家庭を築けるのかゴールが見えなかった。そもそも生活を安定させるための代償として禁欲があるという構図にも疑問があった。目標としていた仕事に就くという到達点に着いたことだし、ここらで功徳から外れてみるのも良いのではという気持ちが生まれてきた。月曜日からまた結果ばかりを求められる生活が始まるのだ。どうせろくなアウトプットができやしない。暗澹たる思いは募る一方だった。
阿蘇アキト「デジタル貨幣誕生前夜」遮断機越しに電車が通過するのが見えた。遮断機が上がるとすぐに哲史は踏み切りを渡り始めた。渡り切る途中に後ろから
「おうい。」
と誰かから呼ばれた感覚を覚えた。驚いて振り向くと梨奈が自転車を引いていた。
「どうしたの。こんな時間に外にいるの?」
「パン粉が足らなくなってね、買い出しに行ってたところ。」
(中略)
「こんどから毎週末、私がプールに連れていくよ。」
「コロナが心配だけれどお願いね。」
家にたどり着き玄関のドアを開けるとすぐに二階から子供たちのおかえりなさいの声が聞こえてきた。